箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
慶應・根岸が走った8区は実は……。
24年前に同じ道を走った1人の男。
text by
神津伸子Nobuko Kozu
photograph byAFLO
posted2018/01/15 07:00
8区を走った慶應3年の根岸祐太。箱根駅伝本大会の経験を、部の仲間にどう伝えるのだろうか。
最後に慶應が出場した1994年の選手の母が……。
辻堂付近に、懸命に根岸に声援を送る女性がいた。
慶應がチームとして最後に箱根駅伝に出場した1994年、第70回大会のメンバー、金谷明憲の母、佳江さんだ。
小学6年生の時に父が41歳で急逝した金谷にとって、佳江さんは父代わりでもあった。金谷は根岸と同じ慶應志木高校出身で、高校時代は全くの無名選手だった。競走部に入部してからコツコツと練習を積み重ね、正選手に選ばれた。172センチの小さな身体が3区を駆け抜けた。
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当時、母は「とにかく途切れさす事なく、たすきを繋いで」とだけ祈った。
その後金谷は食品メーカーに就職したが、2002年、仕事先に向かう高速で多重衝突事故に巻き込まれ、この世を去った。まだ30歳だった。
それ以来、母は「息子を思い出してしまうから」と、箱根駅伝を封印した。テレビをつけないどころか、駅伝の時期に日本にいたくないと、年末年始にケニア、ポルトガルなどに海外脱出を図ったこともある。
だが時が流れ、今年は息子と同じ高校出身の根岸が学連選抜で走る事を知り、沿道に立つ決意をした。
佳江さんは、久しぶりの駅伝の応援を堪能し、根岸の激走に何枚もシャッターを切った。
「本当に良い時間を過ごさせてもらいました」
久々に箱根駅伝を体験した佳江さんは、実は末期のガンを患っている。
「明憲がくれた命だと思って、一日一日を大切に。今日もまた元気に生きています。そして明日が来る事に感謝しています」
「夢のまた夢を、見させてくれ」
金谷と共に箱根を走った1994年のメンバーは毎年、彼の命日に墓参りに出掛ける。
その1人に、慶應の箱根プロジェクトの中心人物、慶應大学院政策・メディア研究科教授の蟹江憲史がいる。
「箱根で金谷は3区を走った。僕は出場がかなわず、彼が走った平塚中継所のサポートだった。その往路3区と同じ道を戻る復路8区を根岸が走った事は、金谷の導きだったとしか思えない」
現役時代に輪番で書いていた練習日誌で、皆で交わした熱い議論があった。
「学生が陸上と勉強とのバランスを、どう取るべきか」
議論は果てしなく続いた。慶應ならではの走る男たちの思いがぶつかり合った。
「その時の事が、箱根駅伝復活プロジェクトを進める上で、いつも頭に蘇ってくる」
大学に進学するにあたって、競走部で走り続けたいと金谷が伝えた時、母は反対したという。真面目過ぎる息子に同好会を勧め、そして「なぜ、そんなハードな部に入るのか?」と、問うた。
意志が固い息子は、箱根駅伝をしっかりと見据えてこう応えた。
「夢のまた夢を、見させてくれ」
それぞれの箱根駅伝が快晴の下、根岸の快走で過去から紐解かれ、新しいステージに向かおうとしている。