Jをめぐる冒険BACK NUMBER
初優勝の瞬間、柿谷の姿はなかった。
セレッソの主将として必要な姿勢は。
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byJ.LEAGUE PHOTOS
posted2017/11/08 08:00
柿谷曜一朗は、セレッソの象徴である。だからこそ、ピッチ内外でチームを引っ張る姿が見たい。
杉本健勇「負けたら顔を見せられへんな」
2トップの一角で出場した柿谷が相手のパスコースを消そうと何度もポジションを取り直し、サイドで守備に奔走した清武がゲーム終盤には何度もカウンターの起点になった。
「今までルヴァンに出ていたメンバーが体現していたサッカーを今日は表現できた」と胸を張った水沼宏太は「今まで繋いでくれたメンバーの想いをしっかり背負って、自覚を持って、覚悟を持ってピッチに立とうと話していた」と、最後まで走り続けられた要因を明かす。
今大会初出場となった決勝で、貴重な先制ゴールを決めた杉本健勇は「もし負けたら(ルヴァン組に)顔を見せられへんな、と思っていた」と安堵の表情を見せた。
これを総力戦の勝利と言わずして、なんと言えばいいだろうか。
技巧派だった現役時代とは異なる、指導者としての顔。
ファイナルの相手が川崎だったことも、C大阪にとっては因縁深い。
「フロンターレと言えば、17年前のことを思い出します」
尹晶煥監督が語るのは、2000年のJ1ファーストステージ最終節。勝てば初のステージ優勝が決まるC大阪の前に立ちはだかったのが、ほかならぬ川崎だった。延長戦の末に1-2で敗れたC大阪は、横浜F・マリノスに優勝を譲る。その5年後の2005年のリーグ最終節にも首位から陥落。3度の天皇杯準優勝と合わせ、負の歴史を刻んでいた。
その川崎戦で、森島寛晃と西澤明訓の後方で攻撃を組み立てていた小柄なゲームメーカーこそ、若き日の尹晶煥だった。強く、速く、大柄な選手の揃う当時の韓国代表の中で、小柄で、技巧派で、まるで日本人MFのような尹晶煥は異質な存在だった。
ところが指導者になった尹晶煥監督は、現役時代のプレースタイルとは大きく異なり、守備に重きを置いたサッカーを志向する。それは、指導者のキャリアをスタートさせたサガン鳥栖でも、C大阪でも変わらなかった。
なぜ、現役時代とスタイルが大きく違うのか――。
「私も攻撃的なサッカーをしたいと思っていますが、ボールがなければ攻撃はできませんよね。攻撃をするための守備を考えなければなりません。それに、現役時代の私はボール奪取力がなくて苦労することも多かった。だから、引退する前から、こういうことをよく考えていたんです」