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ボルトのスパイクは出身高校の色。
立場は変わっても、郷土愛は消えず。
text by
及川彩子Ayako Oikawa
photograph byAFLO
posted2017/08/04 11:00
ボルトの走りが見られるのは、今度こそ本当に最後。本人はリラックスしているが、見ている側が先に感極まってしまいそうだ。
一番の思い出は、地元開催だった世界ジュニア。
今から15年前に緑と紫のユニフォームを着て、独特のフォームで国立競技場を走るボルトの動画をサイトで見ることができる。背がひょろっと高く、痩せて筋肉もほとんどついていない。腕をやみくもに振ってがむしゃらに走る姿には、今のボルトとかぶる部分も多い。
「一番思い出に残っているレースは、2002年の地元開催の世界ジュニア。すごく緊張したけれど、たくさんの観衆の前で勝てて言葉にならないほどうれしかった」
北京五輪でも不滅の世界記録を打ち立てたベルリン世界陸上でもなく、ジャマイカの世界ジュニアを挙げたことに、ボルトの強いジャマイカ愛、そして彼の原点を感じた人は多かったのではないだろうか。
世界ジュニアでの優勝後、ボルトは地元トレローニーから首都キングストンに拠点を移したが、親元を離れた生活はつらく、週末になるとバスに乗って実家に帰っていたという。
「週末が終わってキングストンに帰るときはいつも悲しかった」
帰る故郷、温かく迎えてくれる人々がいるということが10代のボルトには大きな支えだった。
自分が手に入れたものを地元に還元できる選手は……。
ボルトは北京五輪の後から、地元の学校にコンピュータをはじめ様々なものを寄付したり、故郷の村にインターネットを繋げるなど地元のために力を尽くしてきた。「有名になって、余裕が出たら、それを地域に還元しないといけないよ」という父ウェスリーさんの教えも影響している。
富を得たものが還元するのは当然、と思う人もいるかもしれないが、そういう行動をさらりとできる選手は多くない。
ある選手の才能を見込んで自身がコーチを務める高校に転校させ、自宅に住まわせ、食事や陸上の道具すべてを世話していたコーチが、淋しそうに話してくれたことがある。
「プロ契約をした夜に荷物をまとめて出て行った。朝、気付いたら部屋が空っぽになっていて、その後一切音沙汰もない。同じキングストンにいるのに……」