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“伝説のセレソン”ジュニオールに聞く、
スポーツとミュージックの幸福な関係。 

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エリック・フロジオ

エリック・フロジオEric Frosio

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photograph byAlex Bensimon

posted2017/07/01 09:00

“伝説のセレソン”ジュニオールに聞く、スポーツとミュージックの幸福な関係。<Number Web> photograph by Alex Bensimon

パンデイロを持ったジュニオール。音楽とサッカーは彼にとって切っても切れない関係にあった。

W杯でセレソンのテーマソングになった名曲。

――この曲は'82年ブラジル代表のオフィシャル・テーマソングになりましたね。

「スタジアムに向かうバスの中では、いつも『ボア・カナリーニョ』が流されていた。スタンドのサポーターたちも歌っていた。彼らはあの歌を自分たちのものにしたみたいだったね。素晴らしい成功で、まさかあそこまでいくとは想像できなかったよ。僕がアルゼンチン戦でゴールを決めると、彼らはあの歌で祝福してくれた。得点の後に僕がサンバのリズムを刻んだのも、彼らに感謝の気持ちを示したいからさ」

――曲がヒットしたことを実感したわけですね。

「大会が進むにつれて、それがよくわかった。3~4日ごとにレコード会社が電報で10万枚の追加プレスが決まったとか、さらに15万枚プレスすることになったとか知らせてきたからね。ちょっと異常だったよ」

――金銭的にも潤ったのではないですか。サッカー以上の稼ぎになったとか(笑)。

「72万5000枚も売れれば、たしかにいくらかの金にはなる。僕もレコード会社も大満足だろうとよく言われたよ。セレソンの注目度もさらに高まって、僕にはそれが嬉しかった」

――1986年のワールドカップでは『ビブラル・ダ・ノボ(もう一度、感動させて)』というタイトルで再びリリースをしました。

「ああ、だが前回と同じではなく、むしろ友人たちを喜ばせるために作った。だから同じように成功するとは思ってはいなかった。『ボア・カナリーニョ』のようなヒットを繰り返すのは難しいよ(笑)」

イタリアでもずっと音楽と共にサッカーをしていた。

――'84年から'89年にあなたはイタリア(トリノ、ペスカーラ)でプレーしましたが、音楽への愛をどういう形で継続しましたか?

「イタリアに着いたときからブラジルと同じでないことはわかった。けっこう大きなトムトム(打楽器の一種)を持ち込んだんだけど、空港で逆さにして置いていたら灰皿と勘違いされて吸殻を投げ入れられた。そのときにイタリア人は、ブラジル人のようなパーカッションへの情熱を持ってはいないと理解したね(笑)」

――パンデイロもしまわねばならなかったのでしょうか?

「ロッカールームではもちろん休暇中もほとんど叩かなかった。ただ、あるときトリノで、ギターと打楽器、アコーディオンのトリオの生演奏がある居酒屋を見つけた。僕もパンデイロでそれに加わって、一緒にイタリアの伝統音楽を演奏した。楽しかったよ。そんなふうにして、音楽のある生活をイタリアでも続けたんだ」

【次ページ】 「音楽にはロッカールームに調和をもたらす力がある」

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