相撲春秋BACK NUMBER
初代若乃花と隆の里の志を継ぐ――。
稀勢の里30歳、決意の横綱挑戦へ。
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph bySponichi
posted2016/07/09 07:00
先々代の師匠・隆の里が30歳の時に綱獲りを果たした名古屋場所。当時と同じ、仏地院の境内に座った30歳となる稀勢の里。
いつか果たしてみたかった夢……仏地院の境内に座る。
師匠と同郷の隆の里は、昭和43年、15歳で見出され青森から上京。出世前は、師匠の付け人を長きにわたって務めてもいたという。師匠――「土俵の鬼」を尊敬し、憧れ、偉大な存在として仰ぎ見続けた相撲人生でもあった。
その隆の里が鳴戸部屋を興して自らが師匠となり、生涯でたった一度だけ、この仏地院の境内に座ったことがある。
それは平成23年7月、名古屋場所直前のこと。
当時は花籠部屋が宿舎として使用していたが、二所一門の連合稽古が今と変わらず行われていた。
白いランニングシャツにズボンを穿いて仏地院に出掛けようとする鳴戸親方に、おかみである典子夫人は目を丸くし、思わず声を掛けた。
「皆さんがいらっしゃるんだから、そんな格好じゃ驚かれるわ。襟付きのシャツを着ていけば……」
「いや、これでいいんだ」
そう一言だけ答えて出て行った――と夫人は振り返る。
稀勢の里の大関昇進を見届ける直前、急逝した鳴戸親方。
「主人は、師匠が座っていたこの場所に、一度でいいから座ってみたかったらしいんです。『今までは恐れ多くてできなかったけれど、今日こそは千載一遇のチャンスだ。住職さんにお願いしてみよう』と、そんな気持ちだったようなんです」
戻った親方に、「座ってみてどうだった?」と感想を訊ねると、
「いやあ、座り心地が悪かったよ」
そう言って苦笑いしていたという。
そしてわずか4カ月後の11月、九州場所を目前に鳴戸親方は急逝。場所後に大関昇進した愛弟子、稀勢の里の晴れ姿を見ることは叶わなかった。だが、敬愛していた在りし日の師匠のように、ランニングシャツ姿で仏地院の境内に座る――そんなささやかな夢を叶えて逝ったのだった。