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“打倒PL”に燃えた'84年の大産大高。
最強の古巣に挑んだ監督の物語。
posted2016/07/01 17:10
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph by
Number(Yasuhiro Yokota)
同じ時代、同じ場所に生きたからこそ、変わる運命がある。1年に1度、たった1校しか手にできない夏の甲子園をめぐる戦い。
Number905号「地方大会開幕特集」で1984年、大阪大会決勝を取材した。清原和博、桑田真澄を擁するPL学園に敗れた大阪産業大学附属高校の物語だ。怪物とすれ違ってさえいなければ……。そう思わせるめぐり合わせだった。そして、それは球児だけではなく、高校野球に生きる指導者にとっても同じだった。
山本泰、旧姓は鶴岡。大産大高対PL学園の決勝が“因縁の対決”と言われたのは、この人がいたからだ。プロ野球南海ホークスの黄金時代を築いた名監督、故・鶴岡一人の息子である。'74年からPLの監督となり、'78年には西田真二(後に広島)、木戸克彦(後に阪神)らを率いて、初の全国制覇を果たした。準決勝では中京(現中京大中京)に4点リードされて迎えた9回裏、同点に追いつき、延長12回に押し出しでサヨナラ勝ち。決勝でも高知商に2点リードされた9回裏に逆転サヨナラ勝ち。この2試合の劇的な展開から「逆転のPL」という言葉が生まれた。強豪としては知られていたPLを、本当の意味で全国区の名門に押し上げたのが山本だった。
日本一の監督、万年1回戦負けのチームを率いる。
だが、その翌々年、夏の甲子園出場を逃すと監督を退任することになった。忸怩たる思いを抱えていた山本に、万年1回戦負けの大産大高が野球部を率いて欲しいと要請してきた。日本一監督がゼロからの再出発である。
「野球も、生活も本当にひどかった。こりゃあ、大変だなと思った。でも、野球で結果を出すことで学校が変われるかもしれない。そう思ってやっていました」
1年目、練習試合で行った相手校のトイレで選手たちがタバコを吸っていた。
「お前らクビだ!」
そう怒鳴ると、次の日には部員が10人足らずになった。荒れた野を耕すことから始めなければ、ならなかった。それでも、高校球界を知り尽くした男は甲子園への道に何が必要かを心得ていた。野球部を指導する時間以外は中学の有望選手をめぐった。平日の昼は、選手の母親に会って説得する。近隣では「監督が昼間から女性と一緒にいた」と誤解を招くほどだったという。そして、'81年、硬式で全国優勝した大阪東ジャガーズから中本浩ら6人を入学させることができた。スタメン9人中、1年生が8人という、そのチームは秋の大会でいきなり、センバツまであと1歩のところまで勝ち進んだ。