リーガ・エスパニョーラ最前線BACK NUMBER
「彼が創造したのは“流派”そのもの」
クライフの合理性、ユーモア、天才。
posted2016/04/07 10:40
text by
横井伸幸Nobuyuki Yokoi
photograph by
Getty Images
4月2日の夜、カンプノウは特別な場所となった。
今季2度目のクラシコだけでなく、そのキックオフ前に、急逝したヨハン・クライフを追悼するセレモニーが行われたからだ。
昨年の10月22日、肺がんを患っていることを公表したクライフだが、治療は順調に進んでいるはずだった。実際、2月の半ばには「前半は2-0で勝っているという気がする。試合はまだ終わっていないが、最後に勝つのは間違いない」というコメントを発表し、後述するが、地元紙の取材を散歩しながら受けてもいる。
ところが3月24日、世界に寝耳に水の訃報が廻った。享年68歳。早すぎる、と誰もが思ったことだろう。
カタルーニャの社会的象徴として存在してきたバルサとオランダ人クライフの関係は1973年、バルサが移籍金としては当時の史上最高額(当時の交換レートで約200万ドル)をアヤックスに払うことを決めたときから始まる。
「おめでとう」ではなく「ありがとう」。
選手としてクライフがバルサに在籍したのは、'77-'78までの5シーズン。その間に獲ったタイトルは1年目のリーガと最終年の国王杯しかない。しかし前者は14年ぶり、かつ地方の政治的自治どころか文化的独自性も認めないフランコ政権下でのことであり、抑圧の真っ只中にあったカタルーニャの人々は文字通り涙を流して喜んだ。バルセロナの街中でクライフを見つけた人々は「おめでとう」と言葉をかけるのではなく、「ありがとう」と心からの御礼を述べていたという。
そして'88年、今度は監督としてまたもやアヤックスからやってきて、'95-'96シーズンの終盤に解任されるまでの間に、その後バルサが進むべき道を定めてしまった。伝説の「ドリームチーム」によって。
ちょうどその頃にレアル・マドリーで現役を引退して監督の道を歩み始めていたバルダーノは、クライフ逝去に際して、メキシコのレコルド紙に思い出を寄稿している。
「革命的な監督がやって来たなんてすぐには気付かなかった。ただの変人だと思って見ていたが、彼が下していった判断は、計画を持った天才ならではのものだった」