ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
スターが連続離脱の新日本プロレス。
繰り返されてきた危機と再生の歴史。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2016/03/30 10:40
入門してからしばらく、棚橋弘至は武藤敬司の付き人を務めていた。この偶然も興味深い。
1984年、選手大量離脱の危機に登場した闘魂三銃士。
新日本44年の歴史で最大のピンチといえば、'84年の選手大量離脱時だろう。
'80年代初頭はプロレスブームが起こり、毎週金曜夜8時に放送された『ワールドプロレスリング』の視聴率は平均25%を記録。しかしながら、猪木の個人的な事業に絡む不透明なカネの流れ等から、団体内に不満が噴出。
'83年8月に大スター、タイガーマスク(佐山サトル)が突然引退を表明したのを皮切りに、'84年春には前田日明、藤原喜明、髙田延彦らが新団体UWFに移籍。さらに同年9月には長州力率いる維新軍全員を含む総勢13名が大量離脱し、ジャパンプロレスを設立。ライバル団体である全日本プロレスへと主戦場を移した。
この大ピンチに新日本は、謎の怪覆面集団「ストロングマシン軍団」を投入し急場をしのぐと、翌'85年には全日本から大物外国人ブルーザー・ブロディを引き抜いた。さらに'86年には前田らUWF、'87年には長州軍団を復帰させ、観客動員とテレビ視聴率のテコ入れを図るが、人気回復にはいたらず。
'88年に入ると前田らが新生UWFを旗揚げして社会現象と呼ばれるブームを起こす中、新日本はテレビ放映もゴールデンタイムを外れ、ついに団体存亡の危機に陥った。
闘魂三銃士は、大量離脱で取り残された若手だった。
しかし、ここで救世主が現れる。武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の“闘魂三銃士”だ。彼ら3人は共に'84年春に新日本へ入団。あの大量離脱時に取り残された名もなき若手だったが、先輩レスラーがごっそりいなくなった中、新人時代から伸び伸びと試合を行い、若いうちから海外修行に出されるなど、チャンスにも恵まれた。
その3人が海外遠征から帰国し、'90年4月に勢ぞろいすると人気が爆発。新たなファンを大量に生み出し、'90年代に新日本第2の黄金期を作り上げたのだ。