プロ野球亭日乗BACK NUMBER
高橋由伸新監督が継承すべきもの。
原巨人が体現した「勝つ組織」とは。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byHideki Sugiyama
posted2015/10/31 10:40
12年の監督期間中に7度のリーグ優勝と3度の日本一をなしとげた原監督。その後任の責任は重い。
勝つために「自ら動く」策をとってきた原監督。
人生の師であり、野球の師でもあった父・貢氏とともに、甲子園大会に出場した東海大相模高校時代。サインは3つしかなかった。
「“ヒ、バ、ト”の3つだけで高校時代には僕にサインが出ることはなかった。親父さんが僕にサインを出したのは、大学に進学して大学選手権で1度だけ送りバントのサインが出た。その1度きりだった」
“ヒ、バ、ト”とはヒットエンドランとバントと盗塁。個の力を磨けば、アマチュアレベルならそれで十分だった。そしていつも原監督の心にあったのは、そのときに父が自分に託したように、そういう場面で勝負を託せる選手を育て、そういうチームで臨む野球だったはずなのである。
だが、現実にはいまの巨人にそういう選手はいないし、そんな楽なチームではない。
その中で勝つために日替わりの打線を組み、4番といえども送りバントのサインを出してチームを引っ張ってきた。ただ最後の最後、すでに辞任を心に決めていたこの試合で、ひょっとしたらそんな理想を求めて長野に強打を命じたのではないか……。
あの場面を思い出すたびに、そんなことが心を過るのである。
巨人に「継承」を強調させる、苦い思い出。
なぜ今更、こんな終わった話を書くのか。
それは10月26日に行われた高橋由伸新監督の就任記者会見を取材していて、思ったことがあったからだった。
その中で出てきた「原野球の継承」とはどういうことなのか? ずっとそのことを考えていた。
白石興二郎オーナーが語る「原野球の継承」という言葉には、組織としての論理があった。それは前任者から後任への禅譲という意味での継承ということだ。
巨人には苦い思い出がある。
1979年のオフの長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)の退任騒動だった。あのときは実質的な解任で、巨人ファンばかりか野球ファンの猛烈な拒絶反応にあっている。後に当時の渡辺恒雄社長(現主筆)が報道陣に資料を配って、巨人の監督問題は販売部数に影響はなかったと説明していたが、世間的には不買運動が起こるほどの社会的な問題になったのだ。