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拝啓 放駒元理事長
この相撲ブームを見たらきっと――。
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph byMasahiko Ishii
posted2015/10/21 11:30
1973年初場所12日目、魁傑(左)と貴ノ花(右)の取組。放駒元理事長は現役時代、その人柄から「クリーン魁傑」と呼ばれていた。
ネット活用やチケット販路拡大の先見の明。
こんな話も耳にしました。奇しくも、今を遡り最後の満員札止めが出ていた、1996年のこと。貴殿が広報部副部長時代のことでしたでしょうか。まだ試験的な段階で、NTTによるインターネット事業案件にいち早く着眼し、相撲関連サイトを立ち上げさせたのも、放駒さんだったそうですね。
若貴ブームが去り、チケットが売れず、相撲茶屋――国技館サービス会社がチケットを持て余し、相撲協会への不満が渦巻いていた時期もありました。そんななか、チケットの販路を広げようとのお考えだったのでしょう。まだ窓口や電話での販売形態が主だった「チケットぴあ」が、ネット販売の方法を模索しており、相撲協会がその先駆けとしてモデルケースとなったそうです。今となっては、放駒元理事長の先見の明に、うならざるを得ません。
そして何より、八百長問題で揺れていた当時のこと。すべてが親方衆主導の運営形態のなか、裏方の事務職員たちに、「相撲協会の今後のために、何か新しい考えや企画があったら、どんどん出してほしい」と、現場の声を細かに掬ったのだと伝え聞きます。
それが、現在のツイッターやフェイスブックなどのSNSを利用した広報活動や、数々のイベント開催などで結実し、新しいファン層を開拓するに至っています。
相撲界がどん底にあったあの時に放駒元理事長の蒔いた種が、芽吹き、4年の歳月を経て、今このように花を開いたのでしょう。
定年後、表舞台に出ることを頑なに遠慮した理由。
思い返せば、定年退職時の記者会見も、「今、チケットが売れ始めているようだ。私が会見をすると、どうしても八百長問題などの質問が蒸し返され、人気に水を差すから」との理由で、遠慮なされたと聞きます。
定年後は、NHK中継のゲスト解説や相撲専門誌のコメント取材さえも、頑ななまでに固辞されていました。一切、表舞台に出なかったのは、「処分を下した力士たちに申し訳がないから」との理由だった――そう、耳にもした次第です。
連日の満員札止めを記録した秋場所で、貴殿の愛弟子と並んで、満杯の国技館を目にする機会がありました。
「この光景、オヤジ(師匠)に見せたかったですね……」
放駒元理事長の付け人も務めた弟子が、そうつぶやいていましたよ――と、同じく弟子でもあった芝田山親方(元横綱大乃国)に水を向けると、意外な言葉が返って来ました。