マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
“本物”のファインプレーを見たか。
甲子園に鳥羽高が残した伝説の数々。
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byKyodo News
posted2015/08/23 10:30
今年で100年目を迎えた夏の甲子園の第1回大会を優勝した京都二中は、鳥羽高校の前身。今大会でも印象に残るプレーを見せてくれた。
「自主性」の無さを大人が嘆くのは昔からだが……。
自分から動けない選手たち。
それは、今の高校野球の指導者たちが日ごろ大いに嘆くところである。
自分から気づけない若者たち。
それも今の大人たちが大いに嘆くところ、いや、私たちが若い頃からさかんに言われていたことでもある。
試合開始の初球からベンチにサインを求める選手が、今年の甲子園でもなんと多いことか。
いったい、どんなサインが出ると想定してベンチを振り返るのか。
セーフティバント?
冗談じゃない。
そんなもの、人から「やれ!」と言われてできるものか。自分の目と感性で投手の様子をうかがい、内野手のポジショニングを確認し、試合の流れを感じながら、「今ならやれる!」。
そういう“パッション”があって初めて「それっ!」と動けるものではないか。用もないのにベンチをうかがうヒマがあったら、マウンドの投手に集中したらいかがなものか。
鳥羽高に流れる古豪のDNA。
三本間の狭殺プレーで、一塁手がホームのベースカバーに入るのは“セオリー”である。しかし、先にカバーに入っている投手の後ろで待っているばかりで、投手の前に割って入ってくる一塁手はいない。
日ごろの指導者の方の教えなのか、とっさに動いた一塁手の機転と矜持なのか。どちらなのかはわからないが、「ここはオレだ!」と判断したら、その通り迷いなく動ける“自立性”が、今の高校野球、今のご時勢にはなにより尊い。
そして、いつもどこかを見ていること。
いつも、チームメイトの様子を見ていること。“安否確認”をしていること。
捕手に限ることなく、それこそが野球における「集中」であり、これこそが本当のチームワークなのではないか。
京都府代表・鳥羽高。
超高校級の大物がいるわけでもなく、話題だらけの今年の甲子園ではむしろ地味な存在だったに違いない。しかし歴史をたどれば、その前身は夏の甲子園大会第1回目の優勝校・京都二中である。
まさに、古豪。
そんなDNAを引き継いだ選手たちから、私はこの夏、すばらしいファインプレーをいくつも見せていただいた。