フィギュアスケート、氷上の華BACK NUMBER
プルシェンコの現役復帰を徹底検証!
フィギュアの偉大なる“皇帝”の足跡。
text by
田村明子Akiko Tamura
photograph byAkiko Tamura
posted2015/04/27 10:40
1997年の「スケートアメリカ」、14歳のプルシェンコの貴重な写真。五輪金メダル以外での優勝回数では、世界選手権3回、欧州選手権7回、GPファイナル4回、GPシリーズ通算22回と圧倒的な成績を誇る。
「あれが噂のプルシェンコか」
「あれが噂のプルシェンコか」
そんな声が、プレスルームで漏れ聞こえていた。前年、史上最年少で世界ジュニアタイトルを手にしたこの天才少年のことは、当時のスケート関係者の間で話題になっていた。
プルシェンコはフリーでは4回転でストンと尻餅をついた。それでも大きな3アクセルや当時の男子では見たこともなかったビールマンスピンなど、強烈な印象を観客たちに植え付けた。
毎年才能あるジュニアがシニアに上がってくるけれど、このあどけない少年は並みの新人ではない。誰の目にもそれは明らかだった。
この北米デビューの大会で、14歳と11カ月だったプルシェンコは2位。今から実に18年前。羽生結弦が2歳だったころのことだ。
初めて英語で話した記者会見でのエピソード。
2000-01年のシーズン、プルシェンコは出場した全ての試合で優勝し、バンクーバー世界選手権で、ついに世界タイトルを手に入れた。
今でも忘れられないのは、この大会でプルシェンコが初めてロシア語の通訳を介さずに自ら英語で話したことである。
「(4位に終わった)昨年の世界選手権はプレッシャーに負けた。だから今シーズンは、何があっても自分の滑りができるようにしようと思って努力をしてきました」
ブロークンながらも、言いたいことがしっかり伝わる英語だった。自分は世界チャンピオンなのだから、世界のメディアを相手に話さなくては。そういう彼の気概が伝わってきて、この18歳の若者に真の王者の素質を感じ取った。
度重なる怪我との戦いの、始まり。
ソルトレイクシティ五輪では最大のライバルだったアレクセイ・ヤグディン(ロシア)に金メダルを譲ったが、翌年彼が競技を引退すると、プルシェンコの独走状態が始まった。彼にとってもっとも手ごわい敵は、負傷だった。
2003年には膝の半月板を損傷し、この傷はその後何度もぶり返してプルシェンコを苦しめてきた。2005年モスクワ世界選手権では、初の自国開催の世界選手権だったのに、SPの後に股関節の負傷で棄権。氷の上に出てきたプルシェンコの異様に青ざめた顔は、この9年後、ソチ五輪で再び見ることになる。
2006年、トリノでついに念願の五輪金メダルを手に入れたときも、満身創痍の状態だった。無事にフリーを滑り終えたときは、心の底からほっとした表情を見せた。
これで円満に競技引退。
本人を含めて、誰もがそう思ったことだろう。