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プルシェンコの現役復帰を徹底検証!
フィギュアの偉大なる“皇帝”の足跡。
text by
田村明子Akiko Tamura
photograph byAkiko Tamura
posted2015/04/27 10:40
1997年の「スケートアメリカ」、14歳のプルシェンコの貴重な写真。五輪金メダル以外での優勝回数では、世界選手権3回、欧州選手権7回、GPファイナル4回、GPシリーズ通算22回と圧倒的な成績を誇る。
4個目の五輪メダルは、ソチ五輪の団体戦金メダルに。
2014年のソチ五輪に再びプルシェンコが戻ってくる、と宣言した当時、「今度こそいくらなんでも無理では」という声もあった。
2013年1月末、つぶれた腰椎の椎間板を人工物に換えるという大手術を受け、リハビリに半年かけていた。だがバンクーバー五輪の彼を思うと、あの精神力ならきっとやるだろう、という確信があった。
プルシェンコはロシアの男子代表に選ばれ、ソチの団体戦ではSPで2位、フリーで1位になりロシアを金メダルへと導いた。さすがにジャンプ以外は内容の薄いプログラムではあったものの、何度も手術を受けた31歳の体で、まだ4回転は健在だった。4度目の五輪で、4個目の五輪メダルを手にした。
「ロシアで五輪に出場することは、私の夢でした」
団体戦のSP後の会見で、そう口にしたプルシェンコ。だが彼も生身の人間だった。個人戦のSPではウォームアップに出てきたが、ずっと痛そうに顔をゆがめながら腰に手をあてていた。何度かアクセルを試みた後、レフェリーのところに行くと、棄権を宣言した。
そして、再手術と復帰。
予め計画的に棄権したのだ、と批判する声もあった。だがエージェントによると、団体戦のフリーの夜は2時までかかってドーピング検査を行い、翌日目が覚めると体が全く動かせない状態になっていた。その時すでに、代理選手を派遣するために個人戦を辞退する制限時間は過ぎていたのだという。
「体の感覚がなくなっていました。こんなふうにキャリアを終えたくないという気持ちはあります。でもきっと神様が、エフゲニー、もう十分だ、と教えてくれたのだと思います」とコメントを出した。
プルシェンコは担当外科医に会うために急遽イスラエルに飛ぶと、腰に入れていた人工椎間板を固定していたボルトの1本が破損しているという、非常に危険な状態であったことがわかった。
ソチ五輪直後にいったん「これで競技は引退」と宣言したが、その後撤回。2014年3月の再手術後、「平昌五輪の可能性は捨てていない」と口にした。平昌五輪に本当に出場できたなら、彼は35歳になっている。神様が「もう十分だ」と言ったとしても諦めないのはプルシェンコならではである。
今年の1月に東京で開催された「メダル・ウィナーズ・オープン」では、3アクセルを2回跳んで優勝した。常人なら生命にも関わるような大手術を、何度も乗り越えきた皇帝プルシェンコ――その体はいったいどうなっているのだろうかと驚かざるを得ない。
「ぼくは試合が好きなんです。あの緊張感は、アイスショーではどうしても味わうことができないから」と語っていたプルシェンコ。
来季は、パトリック・チャンも試合に戻ってくると宣言している。どのようなシーズンになるのか、エキサイティングな1年になりそうだ。