オリンピックへの道BACK NUMBER
柔道・福見友子、引退1年後の決意。
「自分を表現できる選手を育てたい」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byShino Seki
posted2014/07/06 10:30
引退から1年、今ではすっかり花の似合う女子に変貌した福見友子。しかし一回り小さくなった身体の中に宿る志は全く小さくなっていない。
「自分の考えを上の人に言うのは難しかった」
今、思い描いている指導者像をこう語る。
「自分なりに考えていること、思っていることは選手それぞれにあると思うんですけれど、それを指導者に言うのは、日本の文化ではあまりないように思うんです。少なくとも私が代表チームにいた時代、強化選手のときには難しかったかなと思います。
きちんと表現できるような選手を育てたいと思うし、選手と向き合える指導者になりたいですね。まずは選手が自分の足でしっかり立って戦う、それを最大限サポートできるようになりたい。かゆいところに手が届くように、でもやりすぎないように、バランスをとりながらチャンピオンを作っていく。そして試合だけじゃなく人として、自分の人生をまっとうできるような選手を育てていきたいです」
ロンドン五輪後、柔道界は揺れに揺れた。その中で、選手と指導者とのかかわり方もまた、クローズアップされることになった。福見の言葉には、日本柔道界への思いも込められているようだった。
谷亮子を破って浴びた脚光、そして苦悩。
心に抱いていた指導者への道を本格的に歩み始めた福見には、大きな財産がある。
以前、自身の競技人生をこう表したことがある。
「山あり谷ありの人生でした」
'02年、高校2年生のときに谷亮子(当時は田村)を破ったことで脚光を浴び、それがために苦しんだ時期があった。'07年の全日本選抜体重別選手権では優勝したが、「実績」を理由に谷が同年の世界選手権代表に選ばれ、北京五輪代表を逃すことになった。'09年世界選手権に日本代表として出場し優勝、第一人者の地位を得たと思いきや、後輩の追い上げにあい'10、'11年と優勝を逃し、ロンドン五輪代表が絶望的と思えるところまで追いつめられた。ときに理不尽とも思える出来事にも遭遇し、どん底とも言える日々を過ごしたことがあった。
それは同時に、別の事実を浮き彫りにする。北京五輪代表を逃しながら'09年には日本代表となったこと。その後、一度は追い込まれながらロンドン五輪代表をつかんだこと。高校時代から、一度落ちてもそれを糧にして、必ず這い上がってきたということだ。