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ジョーブ博士と野球医学の革命。
~トミー・ジョン手術の2つの功績~
text by
芝山幹郎Mikio Shibayama
photograph byAP/AFLO
posted2014/03/15 10:40
経営者や判事など、MLBへの貢献を認められて殿堂入りした人は多いが、もしジョーブ博士が殿堂入りすれば、医師としては初めてのことになる。
フランク・ジョーブ博士が亡くなった。1925年7月生まれだったから88歳での他界だが、博士が偉大だったのは1000人を超えるプレイヤーの選手寿命を延ばしたことだ。いや、何百人もの選手が博士のメスによって生き返ったといっても過言ではない。
野球好きならば、トミー・ジョン手術の名を知らない者はいない。日本では、'80年代から知られるようになった。肘をこわしたロッテ・オリオンズの村田兆治が'83年に手術を受け、'85年に開幕11連勝という劇的な復活劇を演じたことで、この治療法が一気に知れ渡ったのだ。
トミー・ジョン手術は1974年に開始された。呼び名からもわかるとおり、最初に手術を受けたのは、ドジャースのトミー・ジョン投手だ。'43年生まれのジョンは、'63年に大リーグに上がり、その後12年間で124勝を稼いでいた。武器はシンカー。内野ゴロを打たせてダブルプレーを取るのが得意な頭脳派の投手だった。
ところが1974年、チームが地区優勝をめざし、ジョン自身も13勝3敗の好成績をあげているさなか、不運に襲われる。シーズン中盤に、左肘の靭帯を断裂する大怪我を負ってしまうのだ。選手生命はもちろん、今後の日常生活にも支障をきたしかねない。
成功率は1パーセント、前例のない大手術。
そのとき、新しい手術を示唆したのが、ドジャースのチームドクターを兼ねていたジョーブ博士だった。ただし、成功率は1パーセント。損傷した肘の側副靭帯に、他の部分の正常な腱を移植して肘を再建した例などは、それまでに一度もなかった。
しかし、ジョンは復活した。'76年、207イニングを投げて10勝10敗の成績を残したのは序章にすぎない。'77年には野球人生初の20勝を記録し、ヤンキースに移ってからも'79年、'80年と連続20勝をあげ、「バイオニック・トミー」の名をほしいままにするのだ。手術後14年間の勝ち星は164。大リーグ実働26年間の通算成績は288勝231敗。引退時の年齢は46歳。殿堂入りこそ果たせなかったものの、トミー・ジョンの名は球史に深く刻まれることとなった。