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神話的な対称を形成した2つの哲学。
1976年のF1界を描く『ラッシュ』。 

text by

阿部珠樹

阿部珠樹Tamaki Abe

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photograph byGetty Images

posted2014/02/28 10:50

神話的な対称を形成した2つの哲学。1976年のF1界を描く『ラッシュ』。<Number Web> photograph by Getty Images

事故の翌年、1977年に撮影されたニキ・ラウダ(左)とジェームス・ハント(右)。ふたりはF1にロマンが溢れる時代のドライバーの代表格だった。

ミリ単位のセッティングか、ガッツと勇気か。

 時代の精神のつかまえ方もみごとだ。ニュルブルクリンクは危険なコースの上に雨が降ったのでラウダは中止を提案する。しかし、優勝争いのライバル、ハントはそれに激しく反対して、ラウダの臆病さをなじる。ドライバーたちは中止するかどうか決を取るが、多くは決行を支持する。年にふたりが死ぬという今からは考えられないほどの危険性の中にあって、「危険なんてクソ食らえ。オレはやるぜ」が時代精神だったのだ。

 しかし、そうした映画技法的な巧みさよりももっと強調しておきたいことがある。それは主人公ふたりが体現するスポーツの精神といったものだ。

 ふたりのレースに臨む姿勢は正反対だ。ラウダはマシンのセッティングに天才的な感覚を持っていて、それを武器にミリ単位のセッティングで自分のマシンを磨き上げ、レースに臨む。ドライビングも無謀さを避け、スムーズなレース運びでタイムを詰めながら、あくまで論理的に勝利に迫ろうとする。

 一方のハントは腕と度胸で勝利をつかみとろうとする。細かいセッティングよりも前の相手は全部抜いてやるというガッツ、強引にインに突っ込みライバルの鼻を明かす勇気が勝つための最善策だと信じている。

相手を尊敬しつつ、その哲学を決して認めない。

 これはスポーツの基本的なふたつの立場だろう。普通はこの両極の間で行ったり来たりし、次第にどちらかに振れたあたりに自分の居場所を見つけるものだが、ラウダもハントも最後まで極端な自分のポジションは変えず、相手を尊敬しながらも相手の拠って立つ哲学を決して認めようとはしない。レースは彼らにとって、自分の立場、自分の信奉する生き方の正しさを証明するための場所であり、そのためなら文字通り命がけになることも厭わない。この頑固さ、強烈な自我こそが戦うための最も重要な動機なのではないか。そんなことを思わせる。

 ラウダは「F1の危険度は20%。それより高くなったらレースではない」と優勝のかかった日本GPでも途中でレースを止めてしまう。一方のハントはタイヤのバーストで一時は優勝を逃しそうになりながら、強烈な追い上げを見せてポイントを取り、ついに優勝をものにする。この最後のレースの決着のつけ方がふたりの生き方そのものになっていて胸に沁みる。世の中にあふれる「皆さんのおかげでがんばれました」といった口当たりのよいコメントに食傷している人におすすめしたい作品だ。

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ニキ・ラウダ
ジェームズ・ハント

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