フィギュアスケート、氷上の華BACK NUMBER
挑まれる立場で迎えたソチ最終選考。
GP王者・羽生結弦、無限の可能性。
text by
田村明子Akiko Tamura
photograph byAsami Enomoto
posted2013/12/17 10:30
GPファイナルで、チャンを下したSP「パリの散歩道」。前人未到の100点越えはならなかったが、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
19歳の誕生日を翌日に控えた12月6日、羽生結弦は世界王者のパトリック・チャンを破り、初のGPファイナルタイトルを手に入れた。
今回のタイトルは、日本人男子としては高橋大輔に次いで2人目の快挙である。わずか3回目の挑戦で、昨年の2位から一つ順位を上げてタイトルを手にした。
「点には驚いていますが、あれだけの評価をいただいたことを期待点と受け止めて、これからももっといい演技をできるようにしていきたいです」
羽生のような天才肌の若手は、欧米、特にロシアなどからたまに出てくる。だが日本男子では彼ほどジュニアからシニアへの移行がスムーズにいった選手は他にいない。羽生は他の選手が喉から手が出るほど欲しいものを、いとも簡単に次々と手に入れていっているかのように見える。
だからと言って、彼が逆境に遭ったことがないわけではない。
2010年に世界ジュニアチャンピオンになった翌年、羽生は故郷の仙台で練習中に東日本大震災に被災した。練習リンクは閉鎖され、全国を転々としながらアイスショーに出場することが練習代わりという夏を過ごした。
言葉の通じないカナダの地で技術を磨く。
だがそのシーズン、羽生はロシア杯で優勝して初めてGPファイナル進出を果たす。そして被災からちょうど1年後の2012年3月、ニースの世界選手権では3位に入賞して、日本男子最年少の世界選手権メダリストになった。
「あのときは誰にも言わなかったけれど、右足首の負傷も抱えていて不安な気持ちでした。でも途中で転んだとき、お客さんから4回転を跳んだとき以上の声援をもらった。その応援に背中を押してもらい、助けてもらいました。(最後まで滑りきったのは)自分の力じゃない、と思ったら涙が止まらなかった」と言う。
その1カ月後、羽生はそれまで師事していた阿部奈々美コーチの元を離れてカナダのブライアン・オーサーの指導を受けるためにトロントに移住した。
「拠点を移す、コーチを変えるというのは、自分にとってものすごく大きなことでしたし、言葉の壁は大きなものでした」と当時のことを振り返る。シニアスケーターにふさわしいスケーティング技術を身に着け、さらに上を目指すための決断だった。