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忘れがたき秘話で綴った、
“人間”大鵬の素顔。
~佐藤祥子・著『知られざる大鵬』~
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph bySports Graphic Number
posted2013/09/29 08:00
『知られざる大鵬』佐藤祥子著 ホーム社 1500円+税
飛行機で外国人男性と少し会話しただけで不機嫌に。
国際線の機内で外国人男性とほんの少し会話しただけで「一日じゅう不機嫌な顔を見せる」。テレビをつけたまま電話を取ると、たちまち受話器の向こうで「誰かいるのか? 男の声がするぞ」。娘と珍しくデパートでショッピングを楽しんでいるのに、ほどなく館内放送で「すぐにご自宅にご連絡ください」と呼び出しがかかる。
用心深さと猜疑心に加えて滑稽なまでにせっかち。手先が器用なので、いつかテレビの修理を頼んでおきながら電気屋さん到着の前に自分で直してしまった。ちゃんこ鍋のスープをお玉にいちいち取って、浮いたアクに息を吹きかけて飛ばすのは一滴も無駄にせぬためである。
新入幕の前後、親方に繰り返し、必勝あるのみ、と諭された。本人は語る。
「だから冒険的な相撲は取れなかった」
名横綱は力のこもる名勝負を必要としなかった。堅実にして柔軟。全盛時の巡業では、ひしゃくの水を「口に含んだまま」5人の大関を次々と退けて、最後にピュッと吐き出した。
ひたすら稽古一筋の自分と、巨人を比べてくれるな。
「巨人 大鵬 卵焼き」。実は大鵬その人は、有名な流行語を好きでなかった。資本を投じた球団と「ひたすら稽古一筋」の個たる自分を比べてくれるな……という内容の発言が周辺取材で明らかにされている。
評者は、確か、小学3年、福岡市内の銭湯の前に大鵬を見た。宿舎である寺から自転車を漕いでやってきた。いま思うに、あの巨体がサドルにまたがれたのか疑問である。でも記憶ではそうなのだ。シーツのサイズの白いステテコは、のちの人生で何度かふと頭によみがえった。
あの瞬間、全肯定の感覚を幼心に知った。大鵬は人間なのに人間でない。それを認める爽快。素顔を教えてくれたはずの本書の読後感もどこか似ている。