野ボール横丁BACK NUMBER
明徳義塾との死闘を制した日大山形。
2度のスクイズを防いだ7年前の記憶。
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byHideki Sugiyama
posted2013/08/19 19:25
明徳義塾の馬淵史郎監督(左)と日大山形の荒木準也監督(右)。荒木監督は同校在学時の1988年、外野手として甲子園に出場。卒業後は東北福祉大、プリンスホテルと進み、アトランタ五輪最終候補にも選ばれた。
死球で塁上がすべて埋まった。
その瞬間、両監督の頭によぎったものの違いが、この試合の明暗を分けたといっていいかもしれない。
8月19日に行われた日大山形と、明徳義塾(高知)の準々決勝。4-3と日大山形の1点リードで迎えた8回裏だった。
明徳義塾は2つの四球と死球で1死満塁として、一打逆転の好機をつかむ。打席には前打席で安打を放っていた8番・馬場雄大。馬淵史郎の判断に迷いはなかった。
「最初からスクイズと決めていた。あそこは絶対に外せない。フォアボール、フォアボール、デッドボールで満塁やから。カウントを悪くしたくない。あそこで外せたら、向こうの監督はたいしたもんよ」
その読みは、半分当たっていた。
日大山形の指揮官、荒木準也の中には、コントロールを乱しているマウンドの庄司瑞に対し、ベンチの指示で外させてカウントを悪くしたくないという考えは当然あった。だが、もうひとつ別の思いがあった。
満塁になったとき、脳裏をよぎった7年前の夏。
死球で満塁になったとき、荒木は7年前の夏を思い出していた。
2006年8月18日、斎藤佑樹を擁する早実との準々決勝。2-1とやはり1点リードで迎えた8回裏だった。同じように死球で満塁のピンチを招き、荒木は内野手に前進守備の指示を出した。
「同点にされるのが嫌でホームゲッツーをねらったんです」
ところが、なんでもないショートゴロのはずが、捕球直前にバウンドが変化し、打球は外野に逸れた。仮定の話だが、もう少し後ろに守っていたら、ショートもイレギュラーバウンドに対応できたかもしれなかった。
結局、その失点をきっかけに日大山形は8回裏だけで大量4点を失い、2-5で逆転負けを喫した。
だから、この日は同点までは構わないと腹をくくり、中間守備を敷いた。
「1試合ごと、選手も地に足がついたプレーをするようになっていた。だから、あそこはもうバッテリーに任せるしかないと思った」