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<運命のドラフトを巡る証言>イチロー
――オリックスの指名に天才打者は戸惑った。 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2010/10/25 10:30

<運命のドラフトを巡る証言>イチロー――オリックスの指名に天才打者は戸惑った。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

監督・土井正三、1位・田口壮の後ろに、あどけない鈴木一朗の姿が(後列左から2番目)

あの時、当たりクジが別の封筒に入っていたら、
プロ野球の歴史は変わっていたかもしれない。
1991年のドラフト当時、愛工大名電高監督として
鈴木一朗を指導していた中村豪氏が、入団を希望しながら
中日に指名されなかった失意の天才の姿を回想する。

「ブレーブス」から「ブルーウェーブ」へ。1991年、オリックスが愛称を変更し、再出発をはかった年のドラフト会議。オリックスが4位で指名したのが、愛工大名電高の無名の投手兼外野手、鈴木一朗だった。そう、現在のイチローである。

「指名を受けたとき、彼は授業を受けてました。それでコーチがオリックスから指名されたと伝えると、ずいぶんがっかりしてたみたい。彼の中ではプロ野球イコール、ドラゴンズだったからね。後になっていろんな人に『何でドラゴンズに行かせなかったんや』って言われたけど、ドラゴンズのスカウトは獲る気なかったな。『内野ができれば……』って言ってたし。こっちは、『篠塚二世』になります、この子の打撃はねちっこくて、柔らかいですよ、ってアピールしたんだけども。そのスカウトは、イチローが活躍し始めたあと、中国担当に配置換えになってしまった。

 それで、イチローは順位は気にしてなかったけど、オリックスということで、嫌だ、大学へ行くって言い出した。私が当時の日大の監督と仲がよかったから、獲ってくれるって言ってたんだよな。でも、それはいかんぞ、って。私も工藤のとき(公康=名電高在校時、社会人行きを明言するも、'81年のドラフトで西武から6位指名を受けると一転してプロ入り)にゴタゴタして嫌な思いもしたからね。サッカーのチーム行くわけじゃないんだから行け、って。必要としてくれてるんやから行くべきだ、と。で、納得してオリックスに行くわけです」

「あの時点では、4位という評価は妥当だったと思うよ」

「ただ、オリックスのスカウトの三輪田(勝利)さんも、あそこまでの選手になるとは思ってなかったみたい。私も正直、2、3年ファームでやって、3割ぐらい打てるバッターになればいいと思っていた程度で、あの時点では、4位という評価は妥当だったと思うよ。そうそう、あと契約の場で、1年目の年俸の提示額が420万だったんだけど、イチローの父親が、『シニ』で語呂が悪いと言って、金額を変えてもらったそうだよ」

 そもそも、イチローは甲子園を目指してではなく、プロ野球選手になるために愛工大名電を選んだのだという。

「普通の中学生だったら甲子園だよな。でも、彼ら親子は最初から目的が違った。その頃、うちは『プロ野球選手養成所』とか言われていて、すでに11人のプロ野球選手を輩出していた。だからこそ、うちを選んだ。私もハッタリで『任せとけ!』って言ったけど、入ってきた頃の身長は170センチだよ。140キロぐらいのボールを投げて、脚力もあって、ミートも抜群だったけど、どうなるかはわからんかった」

【次ページ】 「『センター前ならいつでも打てる』って豪語してた」

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