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<J開幕20年、名実況が紡いだ歴史> アナウンサー山本浩の回想 「日本サッカー、幼年期の終わり」
text by
細江克弥Katsuya Hosoe
photograph byNaoya Sanuki
posted2013/05/15 06:00
Jリーグ開幕戦 ヴェルディ川崎vs.横浜マリノス】「声は大地から沸き上がっています。新しい時代の到来を求める声です。すべての人を魅了する夢、Jリーグ。夢を紡ぐ男たちは揃いました。今、そこに、開幕の足音が聞こえます。1993年5月15日。ヴェルディ川崎 対 横浜マリノス。宿命の対決で幕は上がりました」
“初心者”に分かりやすいように実況でもルール説明。
「開幕戦は独特でしたね。昔からよく知っているベテラン選手がガチガチに緊張していて、どうも様子が違う(笑)。中継に関して言えば、Jリーグが開幕したことで急にサッカーを観る人が増えました。しかしその大半はサッカーの“初心者”ですから、実況でもルールの説明をしなきゃいけなくなるわけです。そう考えると、'90年代はJリーグの開幕を境に視聴者がアマチュアからセミプロへと変わっていく時代だったと言えるかもしれません」
そんな激流をさらに加速させたのが、同年秋に直面したドーハの悲劇だった。土俵際のうっちゃりで首をつなぐ日本代表の姿を伝えるうちに、山本は自身の言葉がスポーツ中継の常識を逸脱していくことに気づく。
「危なかったニッポン!」
「ミスキックに助けられました!」
日本代表に肩入れするスタイルはドーハの悲劇が契機だった。
アジア地区最終予選 日本vs.イラク
「ついにイラク同点に追いつきました。日本2対2とされました。さあ、日本、急ぎたい。日本急ぎたい。日本急ぎたい。アメリカへの道、重い扉ついに、引き分けというかたちで終わってしまいました、日本。食い下がりましたが、日本、食い下がりましたが、日本、結局、最後の最後、同点に追いつかれて2対2。ついにラモスも……(無言)」
報道の大義名分の下に中立を貫くべき実況アナウンサーが、いつしか祖国に肩入れする言葉を連発していたのである。
「私だけでなく、他局のアナウンサーも活字メディアもそうでした。あの予選は、その後の日本代表の中継を作る上での指針になったと思いますよ。本来、放送は客商売ですからどちらかに重心を置くことはできない。でも、日本代表の試合ならそのルールを取っ払ってもいい。ただ、ドーハの頃は『応援していいんだ』という気持ちと『フラットに伝えなければ』という思いが自分の中で戦っていて、言葉が行ったり来たりしていましたね」
'93年に起きた2つの事件は、サッカーバブルに火をつける起爆剤となった。だが、爆発は突然のものではなく、その予兆は実は少し前からあった。テレビを取り巻く環境の変化である。
'80年代後半にスタートしたBS放送によってヨーロッパサッカーが深夜枠の常連となり、早熟のファンはテレビを通じて日常的に世界のサッカーを体感した。'90年代に突入するとテレビ平均保有台数は“一家に2台”にまで高まり、次第にサッカーは茶の間に浸透し始める。