スペインサッカー、美学と不条理BACK NUMBER
アトレティコに戻った“チョロ”シメオネ。
愛すべき嫌われ者がもたらした改革。
text by
工藤拓Taku Kudo
photograph byAFLO
posted2012/02/24 10:31
知将マンサーノの後継としてアトレティコの監督となったシメオネは、典型的な闘将タイプだ
「ファウルが増え、ポゼッションは低くなったかもしれない。でも結果として試合に勝てば、ファンは“戦うチーム”という印象を持ってくれる。今までのチームには何かが欠けていた。それが戦う姿勢とインテンシティ(激しさ)だったんだ」
ひとりの闘将がチームにもたらした変化について、こう語るのはアトレティコ・マドリーのサイドバック、フアンフランだ。
1995-1996シーズンにリーガと国王杯のドブレッテ(2冠)を獲得したチームの中心だったディエゴ・シメオネが、不振に喘いでいた古巣の救世主となるべく昨年末に監督としてアトレティコに戻ってきた。
1994~1997年、そして2003~2005年にアトレティコで活躍したシメオネは、「マリーシア(狡猾さ)」を常識とするアルゼンチン人選手の中でも、群を抜いてダーティーな守備的MFとして名を馳せた男だ。
ファウルも厭わない激しい“削り”でマーカーを震え上がらせるだけでなく、時に対戦相手のキーマンに挑発行為を繰り返して退場に追い込むなんてことまで涼しい顔でやってのける。'98年フランスワールドカップの決勝トーナメント1回戦で、イングランド代表のベッカムから受けた蹴りを大袈裟に痛がり、退場に追い込んだのはその最も有名な例だろう。アトレティコ時代にはレフェリーの目を盗んでバルセロナのロマーリオを蹴飛ばし、報復としてパンチを見舞ったロマーリオを退場させるという事件もあった。
アルゼンチン、イタリアで監督としての経験を積んだ。
冷静かつ狡猾に、時に手段を選ばず、何より全力を尽くして勝利を目指す。そんなスタイルでアルゼンチン、スペイン、イタリアのクラブを渡り歩き、代表では3度のワールドカップ出場と100試合を超えるAマッチ出場数を重ねてきたシメオネは、現役引退直後の2006年より指導者としてのキャリアを歩みはじめる。
エストゥディアンテスとリーベル・プレートでアルゼンチンの国内リーグを制して監督としての評価を高めると、イタリアのカターニアの監督などを経験。そして昨年末にアトレティコからのオファーが届いた。「必ず戻ってくるよ」と退団会見の時から言い続けてきた彼は、もちろん即答でオファーを受け入れた。