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中村礼子を支える頑固さ。 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byTakao Fujita

posted2008/03/04 00:00

中村礼子を支える頑固さ。<Number Web> photograph by Takao Fujita

 決勝レースのスタート前、4コースで名前がアナウンスされると、中村礼子は、手を振ってお辞儀をした。決勝では予選タイム1位の選手が4コースになる。しかし中村は、その場所がまるで定位置であるかのように自然体だった。

 2月23、24日、東京・辰巳で日本短水路選手権が行われた。中村はこの大会で出場した背泳ぎ200、100mともに優勝した。初日の200m決勝が2分03秒24の世界新記録、2日目の100mも58秒08で日本新記録という見事なタイムでの2冠だった。

 アテネ以降、日本競泳陣でのエースは、男子は北島康介、女子は柴田亜衣といわれてきたが、今大会での中村の存在感は、彼らを大きく上回っていた。

 5月で26歳になる中村は、競泳界では遅咲きの選手である。湘南工科大付属高校までの経歴に目立った成績はない。中村が選んだ背泳ぎでは、年上の中尾美樹、中村真衣、萩原智子、稲田法子といった実力選手たちが活躍していたからだ。

 それでも、1日3万mを超えることもあったという猛練習を積み徐々に頭角を現した。

 五輪・世界選手権を通じ初めて日本代表に選ばれたのは、'01年の福岡世界選手権。200mに出場したが、決勝には進めずに終わった。

 '03年にも、バルセロナで行われた世界選手権大会に出場したが、得意の200mではなく100mでの代表。やはり、決勝進出はならなかった。日本代表にまでは選ばれるが、国際大会では思うように活躍できない。

 そんな状況に、中村は一つの決心をする。その年の10月、北島康介を指導する平井伯昌コーチの門戸を叩いたのである。

 この決断は、翌年のアテネ五輪で見事に結実する。中村は200mで日本新記録をマーク、見事銅メダルを獲得したのである。

 これ以降、国際大会でも堂々とした成績を残していった。

 '05年、モントリオール世界選手権200m銅メダル

 '06年、カナダ・パンパシフィック選手権200m金メダル(日本新記録)。

 '07年、メルボルン世界選手権100、200m銅メダル(ともに日本新記録)。この年は、日本選手権100mでシーズン2度目の日本新記録も出している。

 開花したのは、平井コーチの指導の力は、むろんのことだが、本人の性格も大きい。

 中村は、自らも認めるように頑固そのもの。頑固さはマイナスになることもあるが、中村の場合、頑固ゆえに突きつめて考えることがプラスに働いている。平井コーチも「中村礼子とはぶつかることもある」と話しているが、逆にとことんまで話し合い、本人が納得すれば、そこで決まったことは、徹底してやり抜くのである。

 1日3万mのハードトレーニングにめげなかったことが象徴するように、努力を苦にしない性格でもある。だからこそ、そのときそのときに練習で得たものを確実に身につけ、ここまで上り続けてきたのだ。

 短水路選手権で、すべてのレースを終えたあと、4月の五輪代表選考会の抱負を聞かれた、中村は「200mでは2分7秒台を目標にします」と語った。この目標設定は、2分6秒39の世界記録をもつカースティ・コベントリー(ジンバブエ)を追いかける位置につけたいという意欲の現れである。

 この意欲がある限り、中村礼子の上昇曲線は、まだまだ続いていく。

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