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特攻で散った石丸進一を想いつつ、
オリックス・小瀬浩之の死を悼む。
text by
小関順二Junji Koseki
photograph bySPORTS NIPPON
posted2010/02/10 10:30
オリックス・小瀬浩之外野手は、2月5日午前11時45分頃、春季キャンプ地の宮古島市内の宿舎ホテルで転落死しているのが発見された。昨シーズンは一軍で78試合に出場し、3割超えの打率をマーク。天性のバットコントロールと俊足で将来を嘱望されていた選手だった。享年24
2月2日から6日までキャンプ取材で宮崎まで行ったが、5日は巨人、ソフトバンク、西武とも休養日なので行くところがなかった(広島の主力は12日まで沖縄でキャンプを張っている)。こういうときでないと行けないと思い、以前から興味があった鹿児島県鹿屋特攻隊基地があった鹿屋航空基地まで、特急電車→バス→フェリー→バスを乗り継いで、4時間半かけて行ってみた。
基地内に「鹿屋航空基地史料館」があり、屋外には現役を引退した二式大型飛行艇など本物15機が展示され、屋内には明治から現在まで連綿と続く航空機の歴史が順路に従って理解できるように写真や資料などの展示物が配置されている。特攻隊の展示物があるのは2階で、名古屋軍(現中日)の投手として昭和18年に20勝を挙げ、ノーヒットノーランも記録している石丸進一の写真や経歴も展示されていた。
山岡荘八が描いた、石丸投手の最後の投球。
この石丸の出撃前の様子を鮮やかに描いた人物がいる。全26巻に及ぶ大作『徳川家康』の著者として知られる山岡荘八である。山岡は海軍報道班員として鹿屋に派遣され、石丸が戦友とともに最後のキャッチボールをする様子を次のように書き記している。
石丸進一少尉は兄と共に職業野球の名古屋軍にはいっていたことがあるとかで、本田耕一少尉と共によくキャッチ・ボールをしていたが、いよいよ出撃の命が下り、司令の訓示が済むと同時に、二人で校庭へ飛び出して最後の投球をはじめた。「ストライク!」今もハッキリとその声は私の耳に残っている。彼等は十本ストライクを通すと、ミットとグローブを勢いよく投げ出し、「これで思い残すことはない。報道班員さようならッ」
大きく手を振りながら戦友のあとを追った。
(昭和37年8月8日付け朝日新聞、『最後の従軍』より)
野球がやりたくてもできない時代があった。それから65年経ち、今では年間2000万人以上の観客がプロ野球を見に球場に押し寄せ、その中で選手は思い思いのプレーができるようになった。特攻で死んだ石丸進一がこの様子を見たら何を思うだろう。国防の使命を担って特攻で死んだ俺たちのほうが幸せだった、とは思わないだろう。悔しくも妬ましくもあるが、プロとして3シーズンしかできなかった俺の分まで精一杯プレーしてくれ、と思ったに違いない。そんなことを考えているとき、小瀬浩之(オリックス)の転落死を知った。