北京をつかめBACK NUMBER
中年の星、山本博の正念場
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byTakaomi Matsubara
posted2007/05/30 00:00
5月13日、静岡県掛川市つま恋でアーチェリー世界選手権(7月・ドイツ)の代表最終選考会最終日が行なわれた。訪れた取材陣は、ゆうに50人を超えていただろう。アーチェリーの大会では異例のことだ。
取材陣のほとんどのお目当ては、山本博だった。
山本が社会現象ともいえるほど脚光を浴びたのは、2004年のことだ。
1984年のロサンゼルス五輪に21歳で出場し銅メダルを獲得して20年、'04年のアテネ五輪で銀メダルを手にしたのだ。20年を経て、というのもだが、41歳でのメダル獲得に、「中年の星」として一躍注目が集まったのである。
以後、教職のかたわら、テレビの世界で、スポーツ番組にとどまらずワイドショーなどでもコメンテーターとして出演するなど活躍してきた。これらは周知の事実かもしれない。
山本はアテネ後、「北京は金メダルを」と口にしてきた。この選考会は、その第一歩となる大会だった。
というのも、今年の世界選手権には、北京五輪の出場枠獲得(1カ国あたり最大で男女各3名)がかかっているが、全日本アーチェリー連盟の規定によれば、出場枠を獲得した選手はそのまま北京五輪代表に内定するのである。
世界選手権に出られるのは男女各3名。日本のレベルを考えれば、誰が出るにせよ、世界選手権の代表全員が出場枠を確保する可能性は高い。
つまりは、選考会で3位までに入り、世界選手権代表になれば、北京五輪代表につながるといってよいのだ。
だからか、選手たちが漂わせる緊張感はいつにないものだった。
「一発選考」もまた、緊張に拍車をかけていたかもしれない。一度きりの結果が問われるとき、何が起きるか分からないからだ。それはどのような百戦錬磨であっても同じことだ。魔が差すことは、ある。
初夏を思わせる陽射しの中、選手たちは黙々と矢を射ち続けた。やがて終わった。
山本は、4位だった。風を読み違えて低迷した前半戦と、懸命に追い上げた後半戦。3位との差はわずか4点。
山本は、用具をしまいこみ、ひと息入れると、取り囲む数十人の報道陣を前に、口を開いた。
「こういう形になったのは……言葉が思い当たりません。数時間後、1日後、2日後に、どん、と来るのは覚悟しています。そのとき高いビルの屋上に登らないようにしないと……。冗談です」
「北京挑戦は、終わったと思います」
ロンドン五輪について尋ねられると、こう答えた。
「どれだけ家族の応援を受けてきたか……。ロンドン五輪がどうとかじゃなく、弓を続けていくかどうか。わがままに夢を追う男が家庭にいたら、それはものすごく大変なことなわけです。家内と相談して決めたいです」
言葉の端々に落胆は表れていた。表情に気落ちが感じられた。
無理もない。4年越しで追いかけてきたものが消えようというのだ(世界選手権で日本代表たちがしくじれば望みはつながるが、山本の脳裏にはなかっただろう)。
会見が終わると、取材陣からは、こんな言葉が聞こえた。
「いよいよ引退ですかね」
「もう難しいかもね」
そうかもしれない。アーチェリーは息の長い競技とはいえ、ロンドン五輪のとき山本は49歳である。たやすく次を目指す、といえる年齢ではないだろう。
しかし、あらためて山本の競技人生を振り返れば、ロサンゼルスとアテネの間に20年もの年月が横たわっていることが物語るように、実は勝ったり負けたり、栄光と挫折の繰り返しだった。シドニー五輪は出られなかったし、国内でも無敵だったわけではない。どんな質問にも毅然と答える姿には、成功しか知らない人間とは違う年輪が刻まれていることを感じさせた。
北京への道は、かぎりなく狭くなった。失意の大きさは計り知れないけれど、いろいろな思いを味わってきた山本は、再び矢を射ち始めるのではないか。北京五輪は果てしなく遠のいたが、ロンドン五輪を目指すのではないか。そんな風に想像したのである。