プレミアリーグの時間BACK NUMBER
さようなら、スコールズ。
マンU、1999年の三冠組は今?
text by
山中忍Shinobu Yamanaka
photograph byAFLO
posted2011/06/09 10:30
クラブ史上19回のうち10回のプレミア優勝に貢献したスコールズ。168cm、70kgと小柄な体で、喘息を患っていたがその運動量、ゲームへの影響力は衰えるところを知らなかった
「キング」の継承者として、「プリンス」の称号も。
「ジンジャー・プリンス」という異名が使われ始めたのは、スコールズが1軍デビュー2年目のFWだった1995年のこと。
既にマンUの主力だったライアン・ギグスに送られた「ウェールズの魔術師」や、同年デビューのデイビッド・ベッカム(ロサンゼルス・ギャラクシー)が、数年後に手にする「金髪の貴公子」に比べれば、今一つ冴えないニックネームかもしれない。
だが、当時のマンUで「キング」と呼ばれていたのは、あのエリック・カントナ(現NYコスモス強化担当)だ。「プリンス」という王位継承者としての扱いは、最大級の栄誉だったと言える。
ゴールへの嗅覚とシュート力を持ち合わせ、チャンスメイクにも長けていたスコールズは、カントナが、年明け早々の“カンフーキック事件”で、9カ月間の出場停止処分を受けていた間、アンディ・コール(現在はコーチの資格を取得中)らのパートナーとして、完全にレギュラー定着を果たしたのだった。
「ジンジャー・ニンジャ」の弱点は、ファウルの多さ!?
'97年頃からは、守備能力の高いロイ・キーン(現テレビ解説者)とセンターハーフとしてコンビを組むようになり、レンジの広いパスで攻撃を組み立てつつ、積極的に前線に顔を出して決定的な仕事をするようになっていった。
人知れず中央からするすると上がってはゴールを陥れることから、「ジンジャー・ニンジャ」とも呼ばれるようになったスコールズは、'99年の三冠達成のキーマンとも言うべき存在だった。
当時のチームには、同年のCL決勝で逆転ゴールを決めた、「童顔の暗殺者」オレ・グンナー・スールシャール(現モルデ監督)もいたが、必殺の仕事ぶりではスコールズも負けていなかった。例えば、'99年FAカップ決勝では、完璧なスルーパスでテディ・シェリンガム(現テレビ解説者)の先制点をアシストし、自身も左足でエリア付近から力強くネットを揺らして追加点と、全2得点に絡んで優勝を実現した。
しかし、「忍者」も人の子。警告累積で'99年CL決勝を欠場しているように、スコールズにはファウルの多さという泣き所があった。