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『ふたつの東京五輪』 第6回 「日本の威信をかけた戦い(1)」 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/07/23 11:30

『ふたつの東京五輪』 第6回 「日本の威信をかけた戦い(1)」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

お家芸の柔道で3つの金メダルを獲得したが……。

 東京オリンピックをはじめとして、オリンピックや世界選手権で活躍を続けたレスリングは、日本のお家芸のひとつと言われるようにもなりましたが、お家芸の代表格と言えば、やはり柔道です。東京オリンピックで正式種目に採用されましたが、このときは、軽量級(68kg以下)、中量級(80kg以下)、重量級(80kg超級)、無差別級の4階級での実施でした。

 柔道発祥の国として威信をかけて臨んだ日本は、軽量級で中谷雄英、中量級で岡野功、重量級で猪熊功選手と、順調に優勝していきました。

 中谷、岡野両選手は、まさに日本の柔道らしい投げ技を鮮やかに決めての勝利でした。

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日本柔道界のスーパースターだった猪熊功は最重量級で出場、決勝では30kg以上重い相手から一本背負いを奪い金メダルを獲得

 猪熊選手は、当時の柔道界のスーパースターといってよい存在でした。なんといっても技が切れた。話し方も歯切れがよく、日本の柔道を背負っている自負が感じられる選手でした。

 こうして3つの階級を制した日本柔道ですが、最後の無差別級で、神永昭夫選手がオランダの身長198cmの巨漢、アントン・ヘーシンク選手に決勝で敗れてしまいました。

「日本は金メダルを獲って当たり前」と思われていた中での敗北です。とくに無差別級は、ひときわ重みのある階級です。決勝で敗れた瞬間、会場の日本武道館は静寂に包まれました。それまでの3つの金メダルが忘れられたかのように消沈した雰囲気が、日本柔道界に漂いました。

 実は、神永選手は膝を痛めて大会に出場していました。当時の医療技術では手術で治すことはできなかったのです。ですから神永選手本人も、厳しい戦いになるであろうことは自覚していたのではないでしょうか。その後、医療技術が進歩して、同じような故障を治せるようになったのですが、神永選手にとっては進歩が少し遅かったのです。

へーシンクの金メダルは日本柔道界の熱意のたまものだ。

 ところで、ヘーシンク選手は、日本の指導者によって育てられたといってもよい選手です。欧州で指導にあたっていた道上伯氏に才能を見出されて指導を受けたほか、来日して日本で稽古に励むこともありました。

 日本の指導者が育てた選手に大事な試合で敗れたとは、皮肉な話だと思う方もいるかもしれません。

 しかし、こう思います。ヘーシンク選手の例にかぎらず、日本の柔道界の人々は、以前から海外に乗り込み、指導にあたってきました。まだ海外との距離が、今日ほど近くはない時代のそうした積極性と、柔道を普及させたいという熱意は、素晴らしいものだったと思います。だからこそ、柔道は世界にこれほど広がったのではないでしょうか。

 ともかく、レスリング、柔道は東京オリンピックで成果をあげて終えました。

 次回は体操、バレーボール女子などについてお話したいと思います。

岸本健

岸本 健きしもと けん

1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/

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