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「(星野)仙ちゃんが『そういうもんだよ』って言うから」“ハマのドン”94歳が明かした「松坂大輔がベイスターズに入らなかった」驚きの真相
posted2025/04/02 11:21

「あの男」の進言がなければ、松坂大輔は西武ではなく社会人に進んで横浜に入っていた…かもしれない!?
text by

赤坂英一Eiichi Akasaka
photograph by
Hideki Sugiyama
「野球がなかったら、俺はとっくの昔に懲役に行って、今ごろ死刑囚になってるよ」
そう言って豪快に笑う藤木幸夫氏を知るプロ野球ファンは、果たして世間に何人いるだろうか。しかし、横浜DeNAベイスターズには、“ハマのドン”と異名を取るこの人物を知らない関係者はほとんどいないはずだ。
1930年、横浜市出身の94歳。横浜港の港湾・倉庫荷役事業の最大手・藤木企業の2代目経営者(現取締役相談役)にして横浜港振興協会会長、横浜港ハーバーリゾート協会会長でもあり、政財界と深く幅広いつながりを持つ。
戦後の横浜復興に尽力した日本有数の実業家である半面、県立神奈川工業学校(現県立神奈川工業高校)野球部に所属していた経験から、野球振興にも熱心に取り組んできた。神奈川県野球協議会会長としてアマチュア球界を牽引する傍ら、かつてはベイスターズの本拠地・横浜スタジアムの取締役会長も務めている。〈全3回の2回目/つづきを読む〉
そう言って豪快に笑う藤木幸夫氏を知るプロ野球ファンは、果たして世間に何人いるだろうか。しかし、横浜DeNAベイスターズには、“ハマのドン”と異名を取るこの人物を知らない関係者はほとんどいないはずだ。
1930年、横浜市出身の94歳。横浜港の港湾・倉庫荷役事業の最大手・藤木企業の2代目経営者(現取締役相談役)にして横浜港振興協会会長、横浜港ハーバーリゾート協会会長でもあり、政財界と深く幅広いつながりを持つ。
戦後の横浜復興に尽力した日本有数の実業家である半面、県立神奈川工業学校(現県立神奈川工業高校)野球部に所属していた経験から、野球振興にも熱心に取り組んできた。神奈川県野球協議会会長としてアマチュア球界を牽引する傍ら、かつてはベイスターズの本拠地・横浜スタジアムの取締役会長も務めている。〈全3回の2回目/つづきを読む〉
藤木氏は、1978年、DeNAの前身・大洋ホエールズの横浜への本拠地球場移転に尽力。10年後の87年には、広島東洋カープを初優勝に導き、黄金時代を築いた名将・古葉竹識を招へいしている。
古葉監督招へいも浮上しなかったチームが…
「古葉さんは俺が呼んだんだ。あの人(の指導方法)は拳骨だからね。あの監督は(一人前になりそうな)脈がないやつは殴らないんだって。おまえには期待してるんだ、おまえがやらないで誰がやるんだ、おまえしかいないだろうって、そういう拳骨。
じゃあ、本気で殴んねえんだろうと思ったら、いや、本気で引っぱたくんだって。それで、ガツン! とやられた選手が、よく俺に報告に来てたよ。やられましたって、うれしそうに(笑)」
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しかし、古葉監督時代は87~89年の3年間で、一度もAクラスにすら上がれなかった。その後も長く低迷の時期が続いたのち、98年に権藤博監督の下で38年ぶりのリーグ優勝と日本一を達成。当時のベイスターズの躍進は社会現象にもなった。西武との日本シリーズ第6戦、横浜スタジアムで頂点に上り詰めた瞬間を、藤木氏はどこで見守っていたのか。