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中距離では「ケニア人にひっくり返っても勝てない」…瀬古利彦を育てた“奇才”中村清の教え 早大40年前の“箱根駅伝連覇”「前夜の記憶」
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byAFLO
posted2025/01/27 11:01
4年時に箱根駅伝を走る瀬古利彦。後ろのジープには中村清監督。在学時に優勝はならなかったものの、後の早大「連覇」につながる礎を築いた
本来は明るいキャラクターで現役時代、「修行僧のよう」と例えられたことを知る人も、既に少ないだろう。
1976年の春に入学した瀬古は、中村清という人物の存在を知らなかった。だが、入学する直前、一人のOBとして初めて対面することになった。3月25日。新宿駅から館山合宿中のセミナーハウスまで一緒の電車に乗った。
「浪人中、練習をしてなくて、太っていたけど『お前の目はいい』というわけですよ。『死んでいない』と。800mや1500mをやってもケニアの足の長いやつにはひっくり返っても勝てない。私がちゃんと教えるから、マラソンをやりなさい、世界一にしてやると」
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その夜が衝撃だった。
「ミーティングで、早稲田が弱くなったのは我々OBのせい。私にも責任があって謝る、と。自分の頬を殴ったかと思えば、額を壁に打ちつけ始めた。壁に穴が開きました」
あるとき、中村はこうも言った。
「地面の砂をつかんで、これが世界一になれる薬だったら食えるか。私は食べられる。私のいうことを聞くかと言われて、はい、と。言わざるを得なかったですけど、この人は命懸けでやる人だなと」
「硬い革靴で歩いてフォームを矯正しなさい」
19歳のときの驚愕の記憶は今になっても鮮明だ。当時、瀬古は足を故障していて、館山では走っていない。
「走れないなら歩きなさい。最初は硬い革靴で歩いてフォームを矯正しなさい」
それがゆくゆく、安定したフォームづくりの基礎になっていく。こうして中村と瀬古の二人三脚がスタートした。
月曜日は競走部の練習はない。監督就任前の中村の指導を、瀬古だけが受ける日々が始まった。千駄ヶ谷の中村の家で着替えて代々木公園で練習して、風呂に入って夕飯にステーキをごちそうになって東伏見の寮に帰った。
モントリオール五輪前、中村は日本チームの強化リーダーとして、ニュージーランド合宿などで、宗(茂、猛)兄弟らの練習を観察した。5000mのインターバル走を8本、40km走を一日に2本やったこともあったようで、こういう宗兄弟に勝たねばならない、と月曜のたびに聞かされた。