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中距離では「ケニア人にひっくり返っても勝てない」…瀬古利彦を育てた“奇才”中村清の教え 早大40年前の“箱根駅伝連覇”「前夜の記憶」
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byAFLO
posted2025/01/27 11:01
4年時に箱根駅伝を走る瀬古利彦。後ろのジープには中村清監督。在学時に優勝はならなかったものの、後の早大「連覇」につながる礎を築いた
1週間でグラウンドも寮もきれいになった。
週に3回ほど神宮外苑に行って走った。外苑の周回コース1.3キロと東宮御所を回るコースは3.3キロ。代々木公園とトラック練習で織田フィールドを使う日もあった。
入学したときの1万mは30分台。半年経った11月3日、新潟の中条で初めて20キロを走って63分台。箱根の予選会では62分台で3位だったという。「これで箱根の20キロも走れる」という自信みたいなものができた。
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しかし、1年目の箱根の2区は11位。総合でも13位に終わり、シード権を取れなかった。だが、徐々にハードなメニューの効果は表れる。次の年は1万mで28分30秒、1分半縮まった。2年目からは箱根での結果にも表れた。結局、4年連続で2区を走って、2年時は区間2位で3、4年時は区間新記録を連発した。
「浪人して、楽しくもないアメリカの留学から戻ってきて不安もあった。苦労なく中村監督と出会っていたら、特異な変人で終わっていた可能性が高い。指導を渇望していたし、強烈な個性に引っ張られたと思います」
瀬古の在学中は箱根の総合優勝に届かず
かつての箱根の優勝監督で、指導力はある。話は長いが、怖いもの見たさもあってか退屈ではない。中村を「おかしな人」と思ったことが瀬古は一度もなかった。
結果的に瀬古の在籍中、箱根駅伝の総合優勝には届かなかった。最後の4年で2区を走ったとき、あと残り1キロに差し掛かったところで、後ろの監督車のジープから校歌が聞こえてきた。
「監督が都の西北を歌ってくれました。涙が出てきました。過去の苦しい練習を思い出したり、これでWのユニフォームを着るのは最後と思うと寂しい。不思議な効果があって頑張れた」
瀬古は大学2年の福岡国際マラソンで日本人最上位の5位、3年と4年で日本人初の2連覇を果たす。4年時のボストンマラソンは日本人最高位の2位にも入った。
そんな風に「W」を背負った瀬古に憧れたのが、後に84年、85年の箱根路で連覇を果たす早稲田のランナーたちだった。
<次回へつづく>