炎の一筆入魂BACK NUMBER
「格好いいな、あの野郎ってね」金本、江藤、黒田、丸…数々の名選手を発掘した広島の生ける伝説・苑田聡彦のスカウト哲学
posted2024/12/30 06:02
text by
前原淳Jun Maehara
photograph by
Asahi Shimbun
東京六大学野球が行われる神宮球場のバックネット裏には、広島のベテランスカウト苑田聡彦がいつも同じ席に座っていた。選手を見る、その目は鋭くもあり、優しくもあった。黒田博樹、金本知憲ら数多くの名選手を発掘してきたが、2月23日に80歳となる2025年限りで退団することとなった。
福岡県大牟田市で生まれ育った苑田と広島の縁を結んだのは、ひとりのスカウトだった。
苑田は三池工高でのちに東海大相模や東海大で監督を務めた原貢監督の指導を受け、全国に名をとどろかせるスラッガーとなった。1963年当時はまだドラフト制度がなく、自由競争。9球団から打診があった。中には地元球団で、同年リーグ優勝した西鉄からのオファーもあった。だが、選んだ球団は広島だった。監督から「一番、給料は安いぞ。いいのか?」と言われても、迷いはなかった。
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「スカウトに惚れたんよ。当時は練習試合も1週間に一度あるかないかだけど、よく見に来てくれていた。会話したことはないけど、ピシッとした姿が印象的だった。ただ、カープのことは全然知らなかった」
スーツに紳士帽をかぶり、足しげく三池工高のグラウンドに通っていた久野久夫スカウトの誠意に心が動かされた。広島との縁をつなげてくれた恩人であり、スカウトとしての原点でもある。
広島では外野から内野にコンバートされたが、14年間プレーした。広岡達朗コーチから指導を受け、内野守備を追求した。控えに回ることが多かったが、近鉄の岩本義行監督、南海の野村克也監督、阪神の村山実監督から求められた。
だが、3度のトレード打診はいずれも他球団からの要望だったこともあり、苑田は「カープ以外は行きません」と首を縦に振らなかった。プライドを持っていた内野守備で、捕球時の音の変化に終わりを感じた。加えて木下富雄ら若手内野手の成長もあり、77年シーズンをもって身を引く覚悟を固めた。引退の意思を伝えた球団から与えられたポストは、スカウトだった。
長いスカウト人生の始まり
東京行きの切符を渡され、用意された4件の物件から新居を決めた。数日後、新生活の始まりとともに、球団から届いた一通の手紙から突然、スカウト人生が幕を開けた。
「弘前へ行け」
当時はスカウトの数も少なく、苑田は関東以北を担当することになった。もちろん携帯電話の時代ではない。球団からの指示は電話でもファクスでもなく、手紙だったのだ。そこに書かれた日時の夜行寝台列車に乗り、青森を目指した。青函連絡船の中で聞いた汽笛の音は今でも忘れられない。