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清原和博「ドラフトのことを謝罪してください」遅刻してきた巨人側は笑った「キミが来るなら、落合博満を切るんだよ」…FA移籍「落合vs清原」騒動―2024下半期読まれた記事
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/12/22 11:01
1996年10月27日、FA宣言し記者会見する西武・清原和博(当時29歳)。ここから落合博満も巻き込んだ混乱の1カ月が始まる
すでに巨人入団は決定的という雰囲気の中で、プロ野球コンベンションと日米野球レセプションが行われた10月31日、清原は西武関係者と交渉を行い、「外で勝負したい。ドラフトのクジで人生を決められ、自分なりに精いっぱいやってきた。今度は自分が決めた道で勝負したい」とついに他球団移籍の決断を伝える。兄貴分の東尾修監督も、「彼にとっては巨人がやっぱり初恋や夢のようなものなんだ」と理解を示した。
「若いミュージシャンが、『いつかは武道館でコンサートをしたい』というような夢を語ることがある。僕がジャイアンツで野球をやりたいという夢は、つまりその武道館コンサートにも似たものだった。ジャイアンツの選手として活躍すること。それがジャイアンツの試合をテレビで観ながら、祖父に『日本一の男になれ』と言われて育った僕の夢だった」(男道/清原和博/幻冬舎)
黄金時代の西武で四番を張り、11年間で8度のリーグ優勝と6度の日本一に輝いたが、FA権を取得すると、一度は蓋をした少年時代の夢が蘇ってきた。背番号3は11月4日に西武球場で行われた日米野球第4戦に出場。スタンドでは「いつまでも西武の清原でいてくれ」「永遠のミスターライオンズ清原和博」といったファンの横断幕が掲げられたが、試合後に本人は「西武のユニフォームを着てここでやるのは最後になるでしょう」とあらためて移籍の意思を口にする。
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11月10日に日米野球の全日程が終了した翌11日、清原は入団時から何かと自分を気にかけてくれた西武の堤義明オーナーのもとを訪れ、退団の挨拶。堤オーナーはのちに「娘を嫁にやる父親のような気持ちだったよ」とミスターレオを失った喪失感を振り返っている。
「ドラフトのことを謝ってもらえませんか?」
ライオンズブルーに別れを告げ、11月12日に他球団との交渉が解禁となると、13日にはさっそく都内のホテルで巨人との初交渉に臨む清原。すべてはトントン拍子に進み、この日には入団合意するのではという見方もあったが、事態はここから意外な展開を見せる。
「当時の球団代表は約束の部屋で会うなり、チーム内の年俸での序列などを話して『この条件しか出せない』と言ってきました。なぜ僕が欲しいかとかそういうことではなく、来るなら来れば、という感じを受けたんです。だから、まず『僕の中では11年前のことが整理できていないんです。ドラフトのことを謝ってもらえませんか』と言いました。そうしたら、その人は僕の言葉を聞いて笑ったんです。そんなこともあったねえって、ドライな感じの笑いでした。結局、謝罪のないまま『君が来るなら落合を切るんだ』とか他の選手のことを話し始めた」(告白/清原和博/文藝春秋)