「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「広岡さんとノムさんに共通しているのは…」タイプは違えど二人は“似た者同士”だった?「広岡達朗と野村克也を知る男」伊勢孝夫がホンネで語る名将論
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長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/06/07 11:04

野村克也の右腕としてヤクルトの「ID野球」を支えた打撃コーチ時代の伊勢孝夫。その後も多くの球団で卓越した分析力と指導力を発揮した
広岡達朗がスワローズにもたらしたものとは
インタビューの最後に、「広岡達朗がスワローズにもたらしたものは?」と尋ねると、間髪を入れずに伊勢は答えた。
「初優勝ですよ」
球団創設29年目にして、広岡率いるスワローズは初のリーグ制覇、そして日本一に輝いた。当然、連覇を狙ったものの翌79年にチームは瓦解し、広岡も志半ばでチームを去ることとなった。伊勢は続ける。
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「広岡さんとしてはもちろん連覇を狙っていたけれど、それは実現せんかった。でも、野球だけしかしてこなかったワシらとは違って、広岡さんはあの当時としてはまだなじみがなかった食生活のこととか、身体のこと、ケガや病気のことなど、野球以外のことを説いていた。そこには当然、選手たちからの反発もあったけど、広岡さんには決してブレない考えがあった。それは、今となってはよく理解できますね」
前掲書には、広岡についてこんな記述がある。
《ワシは広岡さんという人は嫌いやない。今でも親交がある。練習が厳しすぎるという人もおるけど、そんなもん、プロなら当たり前や。ただし、あの管理主義、特に食べるもんについて、いちいち言われるのはかなわんかった。》
ここにあるように、伊勢は広岡のことを決して嫌ってはいなかった。そして、両者の交流はその後も続いた。
「今は大阪に帰ってきてしまったけど、東京にいるときにはよく連絡しましたよ。ワシがヤクルトのコーチだった頃には、広岡さんに連絡をして、“ちょっと守備を見に来てくださいよ”って言って、練習を見てもらったりしましたよ。沖縄の浦添キャンプではいつも、“おい、伊勢”って近づいてきてくれて、やっぱり練習を見てもらったりしましたね」
酒が大好きだった伊勢は、本人の言うように「大手を振って呑むことはできんかった」。それでもあの手この手を使って酒を調達し、広岡の目を盗んでアルコールを口にしていた。広岡も、それを承知の上で、黙認していた。そんな関係性が両者の間にはあった。ちなみに、78年シーズンに貴重な代打の切り札として活躍した「伊勢大明神」のユニフォームのポケットには、常に池上本門寺のお守りがしのばせてあったという――。
<伊勢孝夫編の第1回、第2回、第3回から続く>
