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クラッシュ・ギャルズよりも“米国で大人気”だった日本人女子タッグとは? WWEが特別扱い、JBエンジェルスはなぜ人気絶頂で“帰国”したのか

posted2024/09/28 17:02

 
クラッシュ・ギャルズよりも“米国で大人気”だった日本人女子タッグとは? WWEが特別扱い、JBエンジェルスはなぜ人気絶頂で“帰国”したのか<Number Web> photograph by AFLO

山崎五紀(左)と立野記代のJBエンジェルス(1986年撮影)

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 80年代半ばに一世を風靡した悪役女子プロレスラー、ダンプ松本の半生を描いたNetflixの配信ドラマ『極悪女王』が話題となり、今あらためて80年代女子プロレスブームに注目が集まっている。

 当時の絶対的なスターは、ダンプのライバルだった長与千種とライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズ。ブームの原動力の大半はクラッシュ人気によるものだったが、あの時代、プロレスの本場アメリカでクラッシュより高い評価を得て大人気を博した日本人女子タッグチームがいた。それが立野記代と山崎五紀のJBエンジェルスだ。

 立野と山崎はともに昭和56年(1981年)に全日本女子プロレスに入団した、クラッシュやダンプの1年後輩。立野は若手時代に1年先輩の長与を破り全日本ジュニア王座を獲得。山崎もデビル雅美の愛弟子として早くから注目されていた実力とルックスを兼ね揃えたコンビだった。

 “ジャンピング・ボム・エンジェルス”略してJBエンジェルスというネーミングは、1986年に歌手デビューする際、所属レコード会社CBSソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)がつけたもの。“JB”と略されたのは、当時、TMネットワークやC-C-Bなどアルファベット略称のグループが音楽界で人気を博していたためだ。

 全女でのJBのポジションは、クラッシュに次ぐ“大関”クラス。なかなか人気絶頂だったクラッシュの牙城を崩せずにいたが、転機となったのはクラッシュブーム絶頂期だった’85年秋。当時、アメリカの大手ケーブルテレビ局ESPNで全女の試合映像が全米放映された際、JBエンジェルスのファイトが世界最大のプロレス団体WWE(当時WWF)幹部の目にとまったのだ。

アメリカの観客にインパクトを与えたJBエンジェルス

 すぐにWWEのビンス・マクマホン会長(当時)は海外担当者を日本に派遣し、全女の大会を視察。そしてすぐさま立野と山崎にオファーを出したが、全女経営者である松永兄弟からの答えは「クラッシュ・ギャルズと極悪同盟(ダンプ松本&ブル中野)を先に行かせたあとなら、JBをそちらに送る」というものだった。

 松永兄弟と全女を放送するフジテレビには「ニューヨークの殿堂マディソン・スクエア・ガーデンのリングに日本人女子レスラーとして初めて上がるのは、スーパースターのクラッシュ・ギャルズであるべき」という考えがあったのだろう。しかしWWEが求めたのは、ボーイッシュなクラッシュではなく、長い黒髪のオリエンタルな少女たち。すなわちJBエンジェルスだった。

【次ページ】 WWEでは“異例の特別扱い”だった

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