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メジロ牧場「女たちがつなぐDNA」…ボサツ、ラモーヌ、ドーベルら競馬史に残る血脈とオーナー北野ミヤの強運を辿って《2011年閉業》
posted2024/05/11 17:00
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph by
Seiji Sakaguchi
2011年の5月、メジロ牧場が44年に及ぶ歴史に自ら幕を下ろした。個人のオーナーが自分で馬を作り、自分の勝負服の騎手を乗せて走らせるオーナーブリーダーの時代は終わりつつあるのかもしれない。白地に緑のラインの目にあざやかな勝負服の騎手を戴いて疾走した馬たちの名前が浮かんでくる。武豊とメジロマックイーン。横山典弘とメジロライアン。メジロ牧場の馬たちは決して華やかな血統を誇ったわけではない。マックイーンもライアンも父は国産だった。父仔三代の天皇賞制覇は重厚な3200mが舞台だった。ダービーではあと一歩届かず、2着が4回ある。力強いがどこかあか抜けない男の牧場。
しかし、メジロにはますらおぶりと対照的な牝馬の系譜、たおやめぶりともいうべき流れがあることも忘れてはならない。メジロ牧場には美しく、繊細で芯の強い牝馬たちと、それをうしろで支えた母のような女性の存在があった。
メジロクインからはじまった大きな血の流れ
メジロ牧場の馬で、現在のGIに相当するレースを勝った最初の馬が牝馬だったことは知られてよい。メジロボサツは浦河の冨岡牧場の生産馬だったが、母はメジロ牧場の創設者、北野豊吉の所有馬であり、メジロボサツもメジロ牧場の馬としてデビューし大活躍した。400kgにも満たない小柄な身で、牡馬のクラシック候補たちを向こうに回し1965年の朝日杯3歳ステークス(現在のフューチュリティステークス)を勝った。
メジロボサツは難産で、母メジロクインはメジロボサツを産み落とすとそのまま息を引き取った。馬名のボサツは、母が仏になったことからつけられたといわれる。メジロボサツが強いのは仏になった母の加護があるからなどとささやかれた。桜花賞、オークスは健闘しながらあと一歩及ばなかったが、朝日杯のほかに函館記念などの重賞を勝ち、母になっても弥生賞などを勝ちクラシック候補といわれたメジロゲッコウなどの活躍馬を送り出した。メジロボサツの母メジロクインからはじまる血の流れはやがてメジロ牧場を支える大きな川になっていく。しかし、そのほとりに大きな花が開くのはまだだいぶ先のことだった。
メジロ牧場を作った北野豊吉は立志伝中の人物である。関東大震災の年、大阪から上京してきた北野は19歳のとび職だった。度胸自慢のとびのアニキとして売り出し、人が集まり、33の年に北野建設を起こす。戦後は大手ゼネコンの傘下で日本初の超高層ビル、霞が関ビルをはじめ高度成長期のシンボルのような高層建築を手がけた。「世界一のとびになる」が若いときからの口癖で、海外に出かけてもまず摩天楼に目が行く男だった。
道楽は馬。戦前から馬主になったが、戦後になると次第に道楽の域を脱し、本職に匹敵する生きがいになった。1961年のダービーで、北野の持ち馬、メジロオーは僅差の2着に敗れる。勝ったのは戦前からの大馬主、西博のハクショウだった。「ハクショウのハナ」は僅差のたとえとして長く使われた。この惜敗が負けず嫌いの北野に火をつけた。本腰を入れて強い馬を手に入れることをめざす。ついには1967年、北海道にメジロ牧場を開いた。
北野は「国産一辺倒」の狭量な男ではなかった
生産牧場には牧場の骨格を形作る基礎牝馬が要る。基礎牝馬になるのは長く日本で活躍馬を出しつづけてきた血統か、海外で高い評価を受けた血統の馬のいずれかである。メジロボサツを生んだメジロクインは戦前からの伝統的な日本血統だった。勇み肌のとびの親方が伝統的な日本血統を愛する。これは分かりやすいストーリーである。
だが、北野は国産一辺倒の狭量な男ではなかった。世界の高層ビルを見て歩いたように、積極的に海外からも血を求めた。メジロボサツが朝日杯を勝った1965年、メジロ牧場はアマゾンウォリアーを輸入した。母方から大種牡馬マンノウォー、父方から英国の至宝ハイペリオンの血を受け継ぐアマゾンウォリアーはメジロ牧場が新たな基礎牝馬にと期待をかけた馬だった。そして、その期待に応えてアマゾンウォリアーは京都新聞杯を勝ち、菊花賞、有馬記念で3着になるなど活躍したメジロイーグルの母になる。しかし、あと一歩でGI級に届かないのはメジロボサツの血統と共通するもどかしさだった。