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高校サッカー“消えた天才”…あの得点王が明かす“モテすぎた青春”「試合会場は女の子だらけ」「バレンタインに軽トラ3台分チョコが届いた」
text by
栗原正夫Masao Kurihara
posted2024/04/21 17:01
東海大一高の平澤政輝。高3時、1987年度の選手権で7ゴールを挙げ、大会得点王になった
じつは得点王は、どこか弱い者イジメをしているような感覚もありました。3年のときは静岡県予選でも11ゴールで得点王になりましたが、選手権でもたとえば2回戦の松江東戦(島根)で4点を挙げるなど固め取りが多かった。得点王という記録は残っていますが、僕の好きな(点の)取り方ではなかった(笑)。
印象に残っているゴール? 高3時の準決勝・市船戦で後方からのロングボールをGKの手前で頭で合わせて先制ゴールを決めました。自分で言うのもなんですが、落下点に入る感覚はよくて、野球をやってもフライを捕るのは得意でした。あのゴールはいち早く落下点に入れて、自分のよさが出たのかなと思います」
「軽トラ3台分のチョコが届いた」
1993年のJリーグ開幕以前の日本サッカーといえば、日本代表や日本リーグの試合はスタンドがガラガラで閑古鳥が鳴いていた。一方、常に多くの観衆を集め高い人気を誇っていたのが高校サッカーだった。
高校サッカーは1976年度から首都圏開催となり、準決勝以降は国立競技場が主な舞台となった。国内でサッカーの試合で国立のスタンドが埋まるのはトヨタカップか高校サッカーのどちらかという時代だった。そう考えると、高校日本一というステータスがどれほど大きかったかがわかるかもしれない。
さらに1980年代は静岡代表のチームが7度も選手権決勝に進出するなど、“静岡強し”という印象が強かった。選手権前には放映権を持つ日テレ系の朝の情報番組で強豪校や注目選手が取り上げられることも珍しくなかった。そんな状況で全国の頂点に立ったのだから平澤が人気者になったのは当然といえる。
「高2で優勝したあとはすぐに新人戦があって、試合のときはどこに行っても女の子だらけでしたね。ファンレターも日本全国から届き、一度ノボリ(澤登)と2人で静岡駅の近くをブラブラ歩いていたら、“わぁーっ”と人だかりができてしまい、仲のよい記者のいたスポーツ新聞社のビルに逃げ込んだこともありました。そしたら、後日そのときのことが記事になっていましたね(笑)」
2月14日のバレンタインの時には、まるでアイドルのごとく、チョコレートがトラックで学校に届いたという。