「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「もう辞めてやる!」激怒する杉浦享に広岡達朗が「オレも巨人で同じ経験を…」“ヤクルト恐怖の6番”が明かす恩義「広岡さんが助けてくれた」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byYuki Suenaga
posted2024/03/30 11:00
「ブーちゃん」の愛称で親しまれた強打者・杉浦享。「厳格」「冷徹」といったイメージで語られがちな広岡達朗の知られざる一面を明かした
これまで本連載で何度も述べてきたように、監督就任早々、広岡は「ジャイアンツコンプレックスを払拭する」と掲げ、アメリカ・アリゾナでのユマキャンプを松園尚己オーナーに直訴して実現していた。サンディエゴ・パドレスとの合同練習を通じて、選手たちに自信を植えつけたかったからである。本来ならば、期待の若手である杉浦こそ、アメリカ行きの筆頭だったはずだ。
「アメリカ行きの5日ぐらい前に、神宮の室内練習場でランニングをしているときに、石につまずいて足首をひねってしまいました。歩くこともできないほどの重傷で、ユマに連れて行ってもらえませんでした」
いくら期待の若手であろうとも、自己管理のできない者は容赦なく切り捨てていく。それが、広岡の流儀だった。しかし、この悔しさは杉浦のさらなる糧となる。
「一軍がユマで汗を流している間、僕は国内で二軍と練習していました。テレビや新聞でユマのニュースが流れてきても、悔しいから見ませんでした。“今に見てろよ”とか、“みんなが日本に戻ってきたら、必ず合流するぞ”という思いだけでした」
大杉勝男からの手紙
この頃、杉浦の支えとなったのが、大先輩である大杉勝男の存在だった。感謝の思いを込めて、杉浦がしみじみと語る。
「一軍がユマに旅立つ前に、球団の方を通じて手紙を託されました。その手紙があったから、僕は“今に見てろよ”という思いで頑張れました。あれは本当にありがたかったです……」
一塁のポジションをめぐるライバルでもあった大杉が、杉浦に託していた手紙。それは一体、どんな内容のものだったのか?
<杉浦享編第2回/連載第26回に続く>