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29歳で死去「消えた天才棋士」村山聖は幼少から必死に生きていた…中1にして「大阪へ1人で行く!」決断させた“未来のライバル”とは
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by日本将棋連盟
posted2024/03/14 17:01
「消えた天才棋士」村山聖。対局経験のある棋士として、田丸昇九段が見た彼の姿とは
全国から246人が集まった大会前日、同年齢の女子と練習で指すと負かされてしまい、「東京はすごいもんじゃ」と驚いた。
北海道から来て同年の小学生名人戦で準優勝したその女子は、後年に多くの女流タイトルを獲得した中井広恵女流六段だった。なお村山は4回戦まで勝ち進み、佐藤康光(現九段)に敗れた。1学年下の小学5年の羽生善治(現九段)は準々決勝で敗退している。
翌82年4月、村山は府中中学校に進学した。その3カ月前には、数年間を過ごした原療養所を出て実家に帰った。成長して体力がつき、薬で症状を抑えられるようになったことで7月には東京で行われた中学生名人戦に参加できたものの、準々決勝で敗退した。
谷川を負かすには今しかない。行かせてくれ
敗戦後、村山が悔しい思いで都内のある将棋クラブに寄ると、何人ものアマ四段を連破した。帰りがけに顔を出したのは、アマ棋界の英雄だった小池重明である。小池は80年と81年のアマ名人戦で連続優勝し、A級棋士を平手の手合で破るなど「プロ棋士キラー」として名を馳せていた。
その小池と村山の対局が行われ、激闘の末に村山が勝った。小池は「僕、強いんだなあ」と言って称えた。この一局が村山にとって大きな自信となり、棋士になりたい思いはますます募った。
やがて村山は「奨励会(棋士養成機関)に入りたい。大阪へ1人で行く」と言い出した。
父親は、息子には好きなように生きさせたいと思ったが、体調面の不安があって逡巡していた。
そこで82年9月に親族会議を開き、反対してもらおうと考えた。実際に親族たちはおおむね反対だった。しかし村山は必死の思いで「谷川(浩司・当時20歳のA級八段)を負かすには今しかない。行かせてくれ」と頭を下げて頼み込んだ。
父親の義弟が賛同したことで棋士への道が…
すると、中学校の校長を務める父親の義弟がこう切り出した。
「中学1年生で自分の人生を決められる者はなかなかいない。うちの学校にもこんな生徒がほしい」
彼が賛同したことで、その場の空気は一変した。結局、村山の希望は承認されたのだった――。
<つづきは第2回>