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「あいつを殺さなかったら、自分が殺される」ブル中野の告白…アジャコングとの死闘が“プロレスファンの色眼鏡”を壊した日《WWE殿堂入り》 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2024/03/13 11:03

「あいつを殺さなかったら、自分が殺される」ブル中野の告白…アジャコングとの死闘が“プロレスファンの色眼鏡”を壊した日《WWE殿堂入り》<Number Web> photograph by AFLO

WWE殿堂入りが発表されたブル中野の現役時代

ブル中野「あの頃は本当にみじめで…」

「私がトップになったときは、ダンプ(松本)さんやクラッシュ・ギャルズさんが引退されたあとで、ブームが去って、お客さんがぜんぜん入らなかったんですよ。本当に10数人しかお客さんがいなくて、選手の数より少なかったときもあった。そういう時代だったんで、とにかく今日の試合をがんばって、来てくれたお客さんに『女子プロレスおもしろいよ』『全日本女子プロレスよかったよ』って、思って帰ってもらおうと必死でした。後輩たちにも『今日満足して帰ったお客さんが、来年もう一人お客さんを連れてきてくれれば、次は去年の倍になるからね』って話しながら、毎日試合してましたね。

 でも、お客さんが入らないのはトップの責任なので、あの頃は本当にみじめで。ダンプさんがいた頃はお客さんがいつも満員だったのに、私がトップになってからはお客さんが入らなかったので、いったいどうすればいいのか、ダンプさん、クラッシュさんの影を消して、新しいスターを作るにはどうすればいいかっていうことを、毎日考えていたんです」

 ここからブル中野の女子プロレス革命が始まる。それまでの女子プロレスにおいて、ヒールはあくまでベビーフェイスの“引き立て役”。試合は凶器を使うなど反則攻撃が中心で、技で魅せるのはベビーフェイスの専売特許だった。ブルはそうした女子プロの常識を覆していく。

「私はダンプさんと組み始めた頃から、全女の(経営陣である)松永四兄弟から『悪役は目立つな』『いい試合しようとか、ひとつも思うな』ってことをずっと言われてきたんです。その時、私も17か18歳ですから、全女という会社の仕組みを知って、ショックでしたね。年末の『全日本女子プロレス大賞』の表彰式で、ベビーフェイスは賞をもらって泣いたりしてるけど、自分たち悪役は賞をもらおうと考えることすら許されない。同じ人間なのに、夢を見ることすら許されなかった。だから私がトップになってからは、悪役もベビーフェイスと同じプロレスラーであり、それ以前に、ひとりの人間であることをアピールしたかった。そして『絶対に悪役でベストバウトや、MVPを獲って見返してやる』と思ってたんです」

きっかけはアジャコングの登場だった

「悪役でベストバウトを獲る」そんな夢を実現する相手は意外なところから現れた。ブルがリーダーのヒールユニット「獄門党」の後輩だったアジャコングが、まだ若手だった豊田真奈美らとともに新興のルチャ・リブレ団体「ユニバーサル・レスリング連盟」に全女からの貸し出しという形で出場。その試合は、女子プロレスを見慣れない男のプロレスファンに大きなインパクトを残した。

 もともと全女の選手たちは、年間200試合以上を闘う精鋭中の精鋭。彼女たちにとっては“いつも通りの試合”が、女子プロレスを見慣れていないファンにとっては驚愕すべき内容であり、これをきっかけに女子プロレスを食わず嫌いしていたことを痛感した男性ファンが、全女の会場に押しかけるようになったのだ。

「新しいファンを増やす、男性のプロレスファンにも認めさせるというのは、自分がずっと考えていたんですけど、それをアジャたちがユニバーサルに出たのをきっかけに実現したっていうのは悔しかったですね。でも、そうやって全女に来てくれたお客さんを絶対に私がキャッチしてやるという思いでした」

 ユニバーサルでブレイクしたアジャコングは、会社側からの“焚き付け”もあり、90年8月、ブルに反旗を翻して獄門党を離脱。バイソン木村とともに新ユニット「ジャングル・ジャック」を結成し、ここからブル中野とアジャコングの一大抗争がスタートした。

【次ページ】 金網デスマッチで起きた「金返せ」コール

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