ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「4万本の五寸釘、落ちれば凄惨」アントニオ猪木が“前代未聞のデスマッチ”を実現させた真相…「日本人ヒール」を確立した上田馬之助の存在
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2024/02/13 17:01
アントニオ猪木と日本人ヒールとして抗争を展開した上田馬之助
黙殺された“上田の挑戦状”
こうして“本籍”日プロを失い、全日本でも居場所がなく見切りをつけた上田は単身アメリカに渡り、テネシー州など反日感情の強い地区を転戦しヒールとして覚醒する。そして渡米から3年後の’76年、満を持して日本に逆上陸することを決意。新日本の猪木、全日本の馬場、国際のラッシャー木村という3団体のエースに挑戦状を出した。しかし、この挑戦表明は案の定、馬場、猪木に黙殺される。
あの時の上田の真の狙いは、最初から猪木と闘うことだったと言われている。当時、日本のプロレス界の主流は日本人vs.外国人であり、大物日本人対決が実現することは稀だった。しかし新日本では’74年に猪木vsストロング小林、猪木vs.大木金太郎という日本人対決が行われ、いずれも蔵前国技館に超満員の観客を集め成功していたので、上田は自分も猪木と闘えるものだと思っていた。
しかし、ストロング小林は国際プロレスのエースであり、大木金太郎も日本プロレス末期のエース。日プロの中堅でしかなかった上田は、馬場はもちろん猪木にも格下扱いされ相手にされなかったのである。そして唯一、経営的に行き詰まっていた国際プロレスだけが挑戦を受け入れた。
スキャンダラスな“ネイルデスマッチ”はなぜ実現したか
上田は’76年5月から国際プロレスに参戦すると、本邦初の本格的日本人ヒールとして強烈なインパクトを残し、6月にはラッシャー木村からIWA世界ヘビー級王座も奪取。すると新日本は手のひらを返すように商品価値が上がった上田の引き抜きに動き、’77年1月、上田はついに新日本参戦をはたすこととなる。ところが、上田が望む猪木との一騎打ちはなかなか実現しなかった。
新日本が上田に用意した“ポジション”は、猪木の同格のライバルではなく、外国人悪役レスラーのタイガー・ジェット・シンのパートナーだった。シン&上田の凶悪コンビ結成は、マンネリ気味だったシンを再生させ新日本を大いに盛り上げたが、上田はあくまでシンのサポート役。ギャラもシンよりはるかに安かった。新日本でもそんな悲哀を味わわされた。
それでも上田は諦めず執拗に猪木戦をアピールし続けると、新日本参戦から1年1カ月後の’78年2.8日本武道館でついに猪木とのシングルマッチが決定。しかし、チケットの売れ行きは思うようには伸びなかった。シンの子分的立場でしかなかった上田が猪木の相手では、蔵前国技館より一回り大きい武道館のメインイベントでやるにはカード的に弱かったのだ。
そのため、観客の関心を呼ぶためのスキャンダラスな仕掛けとして、ネイルデスマッチという形式を猪木自身が考案し決定。この猪木の仕掛けは見事に当たり、チケットの売れ行きは飛躍的に伸びた。