ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「4万本の五寸釘、落ちれば凄惨」アントニオ猪木が“前代未聞のデスマッチ”を実現させた真相…「日本人ヒール」を確立した上田馬之助の存在
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2024/02/13 17:01
アントニオ猪木と日本人ヒールとして抗争を展開した上田馬之助
日本初“ネイルデスマッチ”の結果は…
こうして日本初のネイルデスマッチは敢行されたが、釘板に落ちる、落ちないのスリリングさこそあったものの場外乱闘もできないため、試合内容は寝技中心の地味な展開が続いた。そして最後は猪木がアームブリーカーで上田の腕を折りにいくと、かつて猪木に腕を折られた経験があるセコンドのシンがタオルを投入して、上田のTKO負け。ネイルデスマッチは、両者共に釘板に落ちることなく終わった。
ネイルデスマッチは、どちらかが釘板に落ちて血だるまになるかもしれない興味を煽った試合だったが、あの当時であってもゴールデンタイムのテレビ放送でそこまで凄惨な映像を流すわけにはいかなかったのだろう。
結局、猪木とのネイルデスマッチは、上田のレスラーとしてのハイライトにはなったが、猪木vs.ストロング小林や猪木vs.大木金太郎のような、名勝負としての評価を得ることはできなかった。
日本人ヒールの“源流”
それでも上田馬之助が日本マットに残した功績は大きい。上田はフリーの日本人ヒールとして、初めて成功したレスラー。新日本はその後、’80年代前半にラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇らはぐれ国際軍団との抗争や、長州力率いる維新軍との抗争で大いに盛り上がったが、日本のエースと日本人ヒールが抗争するモデルケースになったのが上田馬之助だった。
現在の日本プロレス界に日本人ヒールは数多く存在するが、その源流には上田馬之助がいる。上田の意地と執念が、日本のプロレス界の流れを変えたのである。