プロ野球PRESSBACK NUMBER
「お前、新人が生意気するな」野村克也監督はコワかった…愛弟子が語るノムさん“嫌がらせ野球”「でも故意のデッドボールはしなかった」
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byAFLO
posted2024/02/13 11:03
南海ホークス時代の野村克也。1954年にテスト生で同球団に入り、1970年~1977年までは選手兼任監督を務めた
「野村さんは4番でキャッチャーだったから、打線が打てなければ自分のせい、投手が打たれれば自分のせい。そして負けたら監督野村のせいになる。だから、相当な責任の大きさを感じていたんでしょうね。そういう苦しむ姿を見ていたから、我々選手としては優勝して、野村さんを胴上げしたいと思っていました」
「生意気に首を振るな」
とりわけ、バッテリーを組む佐藤にとって、野村との距離は近い。「キャッチャーはピッチャーにお伺いを立てるんだ。カーブがいいか、まっすぐがいいかと。俺のサインが気に入らなければ、首を振ってくれていい」と、野村はしばしば言っていたという。自分のリードに自信を持ちつつも、ピッチャーの気持ちを尊重する野村の姿勢は、まさに女房役だろう。
「そうは言っても、実際に首を振ってみたら、すぐに野村さんがマウンドに駆け寄ってきて『1年坊主が生意気に首を振るな』とスゴまれましたけどね。ただ、打たれると『今日は俺の勘が悪いわ』とピッチャーに謝ってくれるので、野村さんの配球は信頼していました。私はコントロールがよくて野村さんのサイン通りに投げていたこともあって、打たれたら野村さんが悪いんだと割り切っていましたよ。他のキャッチャーが相手だと、ピッチャーの側である程度の組み立てを考えなければいけなかったから、野村さんのときは気が楽。思い切り投げることに集中できました」
これこそ、キャッチャーの地位を向上させた野村の偉大さだろう。
「言い方は悪いですが、昔はキャッチャーは壁でした。球団上層部にとってもファンにとっても、キャッチャーは捕った球をピッチャーに返せばよくて、あとはバッティングを頑張ってくれというのが、一般的な傾向ですよ。しかし、野村さんは、キャッチャーの大きな仕事のひとつはリードだという認識をみんなに知らしめた。当時のキャッチャーは打たないと給料が上がらなかったですが、野村さんのおかげでリード面も評価対象になったわけです」
「嫌がらせの野球」
しかし、佐藤にも不満があった。ピッチャーとしてはテンポ良く投げたいのに、野村の伝家の宝刀「ささやき戦術」によってリズムが崩されてしまうのだ。