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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
箱根駅伝2区で骨折“まさかの途中棄権”オムワンバが明かす「最強留学生の悲劇」はなぜ起きたのか?「包丁でズバッと切られたような感覚だった」
text by
田中仰Aogu Tanaka
photograph byAsami Enomoto
posted2024/01/05 11:00
2013年の箱根駅伝で「12人抜き」の快走を見せた山梨学院大のケニア人留学生、エノック・オムワンバ(写真は2013年の関東インカレ)
「トンネルを初めて通ったときは驚いたね。山に押しつぶされないの? 山を回って行く道じゃだめなの? って思った。通り抜けるまでずっと緊張してたよ」
異国の地に降り立ったときの興奮はやがて薄れた。向こう4年間、日本で生活するという現実を少しずつ咀嚼していった。
「日本食は問題なかったんだけど、ウガリがなくて。辛かったな……」
ウガリとはとうもろこしの粉などをお湯で練り上げたアフリカ伝統の主食である。ウガリへの恋しさはそのまま、望郷の念でもあった。帰国できる機会は年に1度。2月1週目の香川丸亀国際ハーフマラソンでシーズンが終わり、その後3月末までの1ヵ月半ほどが“オフ”にあたる。
「留学生は僕ひとりだけでした。チームメイトは優しかったけど、コミュニケーションが十分に取れないというのがやっぱりね……孤独だったな。たぶん入学して半年のうちに1度でも帰国していたら、もう日本に戻ることはなかったと思う」
ケニア人留学生の一日
オムワンバが教えてくれた留学生の一日はこうだ。
「5時に起床して顔洗って。甲府駅近くの寮から1.5kmくらい離れた練習場まで走る。『ミドリガオカ』(緑が丘スポーツ公園)だったな、まだ名前覚えてるよ。6時から朝の練習、7時半から朝食で、9時から15時まで学校。日本語を習う授業と、日本語を使った(通常の)授業を受ける。聞き取るのに苦労したな。終わったらまた練習で、22時くらいには寝ていた」
日本人陸上部員と同じ生活を送っていた。山梨学院大時代、オツオリやマヤカを間近で見た黒木純(現・三菱重工マラソン部監督)も、入学時の驚きをこう語る。
「留学生は“プロ的”というか、授業は出ずに大会だけ参加する存在だと思っていたんですが、まったく違った。練習にも授業にも真面目でした。オツオリがとにかく模範的だったので、彼の姿勢が受け継がれていったのかもしれません」
ひとたび走れば、彼らの速さは別格だった。長距離の練習を本格的に始めて1年足らずの2012年5月、オムワンバは関東インカレで1万mを制すと、10月の出雲駅伝で区間賞、11月の全日本駅伝も区間新。そして、その日を迎えた。