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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
箱根駅伝2区で骨折“まさかの途中棄権”オムワンバが明かす「最強留学生の悲劇」はなぜ起きたのか?「包丁でズバッと切られたような感覚だった」
posted2024/01/05 11:00
text by
田中仰Aogu Tanaka
photograph by
Asami Enomoto
エノック・オムワンバは「箱根で12人ごぼう抜きしたランナー」である。同時に「箱根で途中棄権した最後のランナー」でもあった。
なぜ日本に? 留学が決まるまで
1993年4月4日、ケニア西部の郡・キシイでオムワンバは生まれた。8人兄弟の5番目だった。中学生の頃、先生から陸上を勧められた。するといきなり郡の大会で800m、1500mを優勝した。人口100万人を超すキシイで「僕は有名人」。オムワンバの言葉に筆者が驚きを見せると、すぐさま“修正”した。
「あっ、正確に言うと私の同級生より上の世代では有名、かな。でも下の世代も名前くらいは知っていると思う。本当だよ。中距離はほとんど優勝してたから」
いずれはオリンピック選手に。そう考えていたオムワンバに急転直下、日本行きの可能性が生まれた。高校時代、ケニア選手権の視察に訪れていた同郷の先輩に声をかけられた。「日本に興味ある?」。箱根駅伝の2区を4年連続で走った山梨学院大OB、ステファン・マヤカである。1989年に史上初めて箱根を走った留学生、ジョセフ・オツオリから始まった山梨学院とケニア人留学生の関係は、正確にはキシイ族とのつながりといえる。
「ケニアには40以上の部族があって、カレンジン族が陸上に強い。あの(エリウド・)キプチョゲさんもそうだし、ケニアの全国大会上位はいつもカレンジンが独占する。だから、キシイの僕が(ケニア選手権の)準決勝に進んだだけで目立てたんだ」
キシイを出たことがなかった家族は、日本からの勧誘を祝福してくれた。山梨学院大の上田誠仁監督もケニアまで来てくれた。日本の知識は「新幹線」と「戦争の話」のみだったが、練習環境が整う未知の国への留学を決めた。
ホームシックに「1度でも帰国していたら、もう…」
2012年3月、19歳の春に来日した。羽田空港から甲府の大学に向かう車中、高速道路に目を丸くした。