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「清原以外はふつう。でも力がすごかった」PL学園・清原和博と桑田真澄“KKコンビの戦慄” 高校野球史に残る伝説の3年間はこうして始まった
posted2023/12/12 11:00
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
阿部珠樹氏のスポーツノンフィクション傑作選『神様は返事を書かない』(文藝春秋)より「KK、戦慄の記憶」の項を紹介します。<全3回の1回目/第2回、第3回へ>
PL学園の1年生エースと4番
1983年夏。PL学園は青くて酸っぱかった。4番の清原和博は、体格こそ大きかったが、八重歯の光る笑顔は少年だった。桑田真澄は早生まれで、夏の甲子園がはじまってもまだ15歳だった。チームは清原、桑田というふたりの1年生を4番とエースに据えて大阪予選を勝ち抜いてきたが、この青くて硬そうな果実が大会の間に日を浴びて熟するなどと考えた人はほとんどいなかった。
だが、ふたりは故障者が出てやむなく起用された1年生ではなかった。よほどのことがない限り1年生は先発させないという部の不文律を破り、予選からチームの主軸を任せてきた。特別なふたりだった。
PL学園は1回戦、2回戦を勝ちあがる。3回戦の東海大一高との試合は、1、2回で5点を奪い、主導権を握って押し切った。
「将来が楽しみな好チーム」
それでもそれがこの時点での評価だった。というのも、つぎの準々決勝の相手が高知商業だったからだ。断然の優勝候補、夏、春、夏の甲子園3連覇をねらう池田高校をあわてさせるチームがあるとすれば、高知商はその候補のひとつとみなされていた。
春の四国大会で、高知商は強打の池田を1点に抑える試合を見せていた。池田の水野雄仁に完封され、勝利はならなかったが、エースの津野浩はプロも注目する好素材で、1年生が柱のPLでは荷が重いというのが戦前の見方だった。
だが、高知商の監督、谷脇一夫は周到な準備を怠らなかった。
「ウチは伝統的にデータ重視。必ず事前に相手を自分の目で見るようにしていました。わたしも甲子園では対戦校の練習はかならず見る。PLのときはたしか、変装して人に気づかれないように練習を見に行ったと思います」
練習を見た谷脇の評価は高いものではなかった。
「怖いという印象はありませんでしたね」
当時の四国のレベルは高かった。池田を見慣れた目からすれば、15歳の桑田は迫力に欠け、清原は穴の多い4番に見えたのだろう。
「清原以外は見かけはふつう。でも力はすごかった」
ところが試合がはじまると、高知商はいきなり頰を張られたような先制攻撃を受ける。1回に清原の二塁打で先制されたのを皮切りに、2回には連続二塁打で3点、3回にも二塁打を4本並べて3点を奪われ、7対0とリードされた。