「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
広岡達朗は“名将”だったのか? 非難でも称賛でもなく…大矢明彦に聞いた“本当のヒロオカ論”「説明があれば、結果は違っていたのかな」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byYuki Suenaga
posted2023/11/15 11:04
「広岡さんに懐こうとは思わなかった」と語る大矢明彦。冷静にチームを俯瞰していた司令塔の目に「監督・広岡達朗」はどう映っていたのか
「日本一になるにはあの年しかなかった」
結果的に福本には全7戦で7つのフォアボールを与え、5つの盗塁を許してしまった。それでも、シリーズ第4戦、1点リードで迎えた9回裏一死一塁の場面で福本を刺し、チームに勝利を呼び込んだシーンが印象深い。
「結果的に福本には走られましたけど、いちばん困ったのは島谷(金二)さんでした。どこに投げても打たれるから、“どうやって抑えればいいんだろう?”とかなり頭を悩ませました。その一方では、加藤秀司は完璧に抑えました。それも印象深いですね」
このシリーズで島谷は7試合連続ヒットを記録し、24打数11安打6打点と大活躍する。一方の加藤に対しては15打数2安打と、ほぼ完璧に封じ込めることに成功した。全試合で先発マスクをかぶって、エース・松岡弘の2勝2セーブを好リードでアシストした。大矢は見事に自分の役割をまっとうしたのだ。
改めて問う。「あなたにとって、1978年とはどんな一年だったのか?」、と。間髪入れずに、大矢は答える。
「僕はヤクルトのドラフト1期生なんです。なかなか勝てない中で8年が経過し、9年目にさしかかった。チームには同い年の連中がたくさんいて、“みんなで野球をやりたい”と思って歩んできた集大成、それが1978年という一年でした。“やっぱり、みんなで一生懸命に頑張るっていいなぁ”、そんなことを感じさせてくれた一年でした」
球団名に「ヤクルト」の名が冠せられたのが、大矢がルーキーだった70年のことだった。以来、Ⅴ9時代のジャイアンツの後塵を拝しながら、懸命に奮闘を続けたものの、なかなか結果が出なかった。それでも、若松勉、松岡弘、安田猛ら同学年の選手たちが中心選手となり、心身ともに充実期にあったこの年、広岡達朗の下で日本一になった。
「後から考えれば、日本一になるにはあの年しかなかったのかもしれません。僕たちがいちばんいい時期に優勝できた。そんな気がしますね。繰り返しになるけど、“ヤクルトでやってきてよかった……”、そんな思いがやっぱりいちばん強いですね」