「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
広岡達朗は“名将”だったのか? 非難でも称賛でもなく…大矢明彦に聞いた“本当のヒロオカ論”「説明があれば、結果は違っていたのかな」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byYuki Suenaga
posted2023/11/15 11:04
「広岡さんに懐こうとは思わなかった」と語る大矢明彦。冷静にチームを俯瞰していた司令塔の目に「監督・広岡達朗」はどう映っていたのか
大矢明彦に聞いた“本当のヒロオカ論”
先にも述べたように、この年の開幕戦で先発マスクをかぶったのは八重樫幸雄だった。今でも「一生忘れない」と語る悔しさを味わった。大矢にとって、「広岡達朗」とはどんな指揮官だったのか? 自身にとって、唯一となる「日本一」という称号を与えてくれた監督のことをどのようにとらえているのか? 大矢は静かに口を開いた。
「厳しい監督でしたが、日本一にさせてくれたので、本当に感謝しています。広岡さんがいなかったら、ヤクルトは優勝していなかったかもしれない。そういう意味では今も感謝の思いでいっぱいです」
そこまで言うと、「でも……」と、大矢は意外な言葉を続けた。
「……でも、僕は個人的に広岡さんとそんなに親しくお話をしたことはありません。それに、広岡さんに懐こうという気持ちもありませんでした。自分たちは自分たちの仕事をしっかりとして、メンバー表に自分の名前を書かれて試合に出ること。それだけを意識していました」
それは大矢だけのことだったのか、それともチーム全員がそうだったのか?
「さぁ、みんながそうだったのかどうかは、僕にはわかりません。でも、あの当時の選手たちはみんな大人だったなと思います。監督から、“あれをやるな、これはダメだ”と言われて、“わかりました”とは言っていたけれど、それでも自分のペースは決して崩さなかった。その点は、やっぱり“みんな、大人だったなぁ”と、今でも思いますね」
そして大矢は、かつて松岡が語っていたことと同じことを口にした。
「広岡さんの場合は、“なぜ、それがダメなのか?”という説明がないんです。“これこれこういう理由だから、アルコールはダメなんだ”という説明があれば、“なるほど、それならやってみようか”という気になるのに、それがまったくなかったんです。だから、やっぱり、広岡さんに対しては反発する選手の方が多かったと思います」