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掛布雅之でも岡田彰布でもバースでもなく…1985年阪神タイガース、日本一の理由は“最強打線”ではない? 吉田義男監督が語った強さの秘密
posted2023/11/04 06:16
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
BUNGEISHUNJU
日本シリーズで優勝に王手をかけた岡田監督率いる阪神タイガース。38年ぶり、2度目の日本一は成るのかーー。Number885号(2015年9月3日発売)に掲載された[球団史上初の日本一]「猛虎がひとつになった年」を特別公開します。*肩書は当時【全2回の後編/前編へ】
日航機墜落事故で阪神球団社長が帰らぬ人に
さらに1985年の阪神の優勝を語る上で、絶対に忘れることのできない悲劇が、8月12日に起こった日航機墜落事故だった。
羽田発、大阪伊丹空港行きのJAL123便が、離陸直後に後部隔壁の損傷からコントロールを失い、群馬県の通称・御巣鷹の尾根に墜落。乗客乗員524名のうち、520名が亡くなる単独の飛行機事故としては史上最悪の惨事となった。この飛行機には阪神の球団社長だった中埜肇が乗っていて帰らぬ人となっている。
チームは直後の巨人3連戦(後楽園)から6連敗を喫して、最大のピンチを迎えた。そのとき動いたのが当時の選手会長の岡田だった。
「巨人に3つ負けてこれはヤバいぞという感じはありましたね。せっかくここまで来ているのに、ちょっとヤバいな、と。このままズルズルいったら、これまでと同じになってしまう。夏のいわゆる“死のロード”は、いつも成績が悪かったからね。これは何とかここで止めんといかん。今年は絶対に止めんといかん、というのがあった」
高校野球に甲子園球場を明け渡す“死のロード”の真っ最中の8月18日。広島の宿舎「きっかわ観光ホテル」の2階食堂に全選手が集まって、選手だけのミーティングが開かれた。
「しんどいのはみんな一緒や。それだけに、ここでひと踏ん張りして苦しい局面を力を合わせてみんなで打開しようやないか!」
こう語りかけた岡田に続いて、掛布と川藤幸三が檄を飛ばした。
岡田と掛布の「2人が前に出た方がいい」
このミーティングを仕掛けたのが川藤だった。前夜に岡田を食事に誘い、そこで選手をまとめるべきだと説いたのだ。