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プレーオフ中に「妻の出産のためチームを離れたい」ロッテ・バレンタイン監督は今江敏晃の“産休”を許可した…ボビーマジック18年目の真実
text by
ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock
photograph byHideki Sugiyama
posted2023/10/15 11:00
ボビー・バレンタインが起用し続け、花開いた今江敏晃。じつはプレーオフ中に妻の出産に立ち会いたいと監督に相談していた
日本の野球コミュニティは、接し方が非常に難しい。私が最初に日本に来たとき、コンパック社のコンピューターを宣伝するテレビCMに出演し、世界を変える、野球を変えると言った。私はアメリカ式のやり方を見せるための新たなアイディアを持ち込んだ。そのアイディアはものすごく強い抵抗に遭った。
1995年に日本で過ごしたときにひとつ学んだのは、私が行く前に彼らがやっていたことは、かなり優れていたということだ。私が見出さなければいけなかったのは、それをいかに微調整してより洗練されたものにするか、それらの良さをさらに高められるように、どうやって個別にアプローチすべきかということだった。それを踏まえ、2004年に戻ったときには、そこを課題にした。これをしろと強制するのではなく、彼らが成功するためにはどうすれば一番良いかという、折り合える点を見つけることを試みた。
マイノリティは私の方だった
日本人コーチの中には気難しく、忠実でない人物もいた。だが、日本の野球界と日本社会そのものと比べたら、どうということはなかった。彼らが何よりも望まなかったのは、私が成功することだった。日本はずっと閉鎖された社会だった。野球と相撲は彼らにとって聖なるスポーツで、私はその世界にズカズカと足を踏み入れていたのだ。マイノリティは私の方だった。誰も目立つことがない社会で、私は目立つ存在だった。
1995年当時、私は強制的に教え込みたいことがたくさんあった。私が知っていることを全員が確実に知るようにしたかった。だがやがて、彼らは私が知っていることなどどうでもいいこと、私が知っていることなどクソ食らえと思っていることに私は気づいた。その頃には彼らも、私がチームのため、野球のコミュニティのため、さらには日本の社会のために役立ちたいから日本に来たのだと、気づいてくれた。
応援団のために何かをしたい
2004年は、その方向で行くことにした。私に忠実でなかったコーチには、なぜ私がこうしたいのかを伝える努力をした。シーズン終了後、私はポケットマネーを使ってコーチたちをアメリカに呼んで地元のホテルに泊まってもらい、数日間一緒に過ごして地域の野球コーチが集まる大規模なイベントに参加し、ニューヨークやカジノにも行った。そこでは、我々がやっているすべてのことは「私」のためにではなく、「我々」のためにやっているということだと伝えようとした。時間をかけてそれは浸透していったが、簡単なことではなかった。