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プレーオフ中に「妻の出産のためチームを離れたい」ロッテ・バレンタイン監督は今江敏晃の“産休”を許可した…ボビーマジック18年目の真実
posted2023/10/15 11:00
text by
ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock
photograph by
Hideki Sugiyama
セラフィニは温泉に入れなかった
日本に戻ることは、私の人生に起きた最もエキサイティングな出来事のひとつだった。私は空港で数千人の千葉ロッテファンに迎えられ、最高の歓迎を受けた。私は、数人のコーチを一緒に連れて行くことができた――フランク・ランペン、トム・ロブソン、ポール・プポ。そして、数人の選手も――投手のダン・セラフィニ、外野手のベニー・アグバヤニとマット(マティ)・フランコの2人。
セラフィニは面白かった。彼は身体のあちこちにタトゥーを入れていたが、彼が直面した難題は、ほとんどの日本人はタトゥーをヤクザと関連づけて見てしまうことだった。日本ではタトゥーがあると入れない場所があり、温泉もそのひとつだが、温泉はとても良い効果を身体にもたらしてくれる。ダンは2、3度温泉に入ろうと試みたが、残念な結果となり、心外極まりなかった。パンチが飛ぶようなことはなかったが、入れてもらえなかったのは彼にとっては納得のいかないことだった。
メッツで一緒だったベニーを重用
私はベニーを毎日プレーさせた。ニューヨーク(編集部注:1998年から2002年までメッツの監督と選手として同じチームに所属していた)ではできなかったことだ。そして、私が思っていたようなレギュラー選手になってくれた。フランコはアメリカでは私の下でマイナーとメジャーの両方でプレー経験があったが、彼を毎日球場で見られたのも嬉しい光景だった。
そこには、9年前若手だった選手がたくさんいた。経験が浅いながらも優れた才能を垣間見せる選手だった彼らが、今は鍛錬された主力となり、両手を広げて私を歓迎してくれた。そのうちのひとりが、流れるように美しいスイングをする一塁手、福浦和也(フキ)だった。
秘蔵っ子の小宮山を取り戻す
また、9年前にトム・ロブソン(編集部注:1995年~96年のロッテ打撃コーチ)と私が持ち込んだ哲学を受け入れてくれた、当時若手の二塁手だった堀幸一は、非常に質の高い野球選手となっていた。小宮山悟もチームに復帰した。彼は私が指揮を執った1995年の開幕投手だった。